39.ほつれた糸-6

 さて。ルイと一緒にエスタさんの帰りを待つことにしたものの何をして時間を潰そう?さっきルイが教えてくれた、俺が一番好きだったという童話の本は読み終えてしまった。目の前に整然と並ぶ本の中に興味を惹かれる物、あるいはルイとの会話の糸口になりそうな本が無いか目を走らせるがそのような物も見つからない。

『でもこのまま何もせずに待つだけというのは流石にもったいない気がする……』と思い悩んでいた時。ふと、先ほどまでたびたび苦しめられていた頭痛が治まっていることに気がついた。

 良かった。頭痛がこれ以上ひどくなったらルイたちに気付かれてしまうところだった。そうだ、後でまた頭痛が再発しないとも限らないから今のうちにルイと交流を深めておこう。

 そう意気込んだ俺は隣に立つルイに顔を向ける。ルイは先ほどの俺と同じように本棚の上のほうを見上げて「他にはどういう本が好きだったっけ……」と呟いていた。

 こうして並んでみて初めて気がついたが俺よりルイのほうが若干身長が高い。少しクセがある焦茶色の髪。その下で瞬く蒼の瞳。白髪に紅い瞳の俺とは真反対の取り合わせだ。よく晴れた日の空のような蒼色の瞳がとりわけ綺麗で、遠慮も忘れてまじまじと見つめてしまう。

 青といえば冷たい印象がある色だが、ルイの瞳にはそのような印象を受けない。むしろ温かみを覚える。安心感……は言い過ぎか。不思議と気持ちが和らぐような……何故だろう。

 記憶を失くして最初に目を覚ました時、ルイはそばにいた。俺が目を覚ましたことに一番に気がついて、最初に話しかけてきた。俺が目を覚ましたことを喜んでいた……と思う。

 ルイは……記憶を失う前の『俺』とどのような関係だったのだろう。

 

『ルイから見て俺は……『ティルジア・ルエ・レリリアン』はどういう存在で……どう映ってた?』

 庭園でルイに問いかけた質問が頭の中を反響する。あの質問の他にもう一つ、知りたい事があった。俺が知りたかった事。それは――

『俺』にとってルイはどういう存在だったのか?

 そんなことを聞いてもきっとルイには答えられない。俺がどう思っていたか、ということなのだから。だから、結局あの場では聞かずに終わってしまった。

 でも自分の中でどんなに考えても分からない。この疑問と、先日見た夢の中での出来事が。

 先日の夢の中で俺は幼い自分と相対して、いくつか言葉を交わして……そこで突如としてひどい頭痛と言いようのない恐怖に襲われた。どうしてそんな感覚に襲われるのかも分からず、ただただ痛くて、苦しくて、怖くて堪らなくて。

 それらに押し潰されてしまいそうになったその時、誰かの声が聞こえてきた。その声は「大丈夫」と。「そばにいるから」と。「ひとりじゃないよ」と。うずくまって震える自分に何度も呼びかけ続けていた。

 夢の中で呼びかけ続けていた誰かの声。
 あの声は――ルイの声だ。

 自分でもどうしてそう断言できるのか分からない。だけどあれはルイの声だ。それだけは確信していた。

 それならば何故あの場でルイの声が聞こえたのかが不可解だ。それにどうしてルイはあんな事を言っていたのかも分からない。
『俺』にとってルイはどんな存在で、どんな感情を抱いていたのだろう。

 

「ティジ、どうかしたか?」
「え?」
 不意にルイが振り向き、こちらを案ずるように問いかける。心の声が漏れてしまったのかと焦るがそれは杞憂だとすぐに分かる。俺の右手が、知らず知らずのうちにルイの上着を掴んでいたみたいだ。

「ご、ごめん。ちょっとボーッとしてた」
 思考に気を取られて、無意識で起こしていた行動に自分でも驚きながら手を離す。俺の手はまるで引き留めるように、追い縋るかのようにルイの裾を掴んでいた。自分でも何故このような行動をしたのか理解できない。

「そこに椅子もあるから少し休むか?そういえばずっと立ちっぱなしだったし疲れたろ」
「ううん、平気。それよりもルイともっと話がしたいな!ほら、さっきの旅行のお話とか……エスタさんも色々お話してくれたけどルイの思い出も聞きたい!」
 から元気を出して話題を変更を試みる。かなり強引に押し切ってしまったがルイは疑う様子もなく「思い出か……」と考え始める。上手く気を逸らせたことに安堵していると、ルイはやがてぽつぽつと旅行の思い出を語り始めた。

「エスタさんが話したこと以外だと……行きの汽車で窓を開けようとしてクルベスに止められたり、城のみんなにお土産を選んだりしたな。それまで旅行した事とか全然無かったからお土産選びっていうのが新鮮でめちゃくちゃ悩んだ記憶があるな。その他にはテディベア……ぬいぐるみの専門店に寄ったりしたか。いや、ぬいぐるみのほうはクルベスとエスタさんに引っ張られたから寄っただけで、まぁ、でも店の雰囲気は良かったし、ぬいぐるみのラインナップもなかなか目を見張るものがあったけども……」
 俺は何も咎めていないのにルイは「でも自分から行きたいとか言ったわけじゃなくて……その場の流れで行くことになったっていうか」と言い訳をするようにぶつぶつと呟く。何故か気恥ずかしそうにしているルイに俺が首を傾げていると彼は「それで、えーっと……」と視線を彷徨わせた。

「あとはまぁ……さっきのエスタさんの話と被るけど、最後に寄ったカフェが良かったな。エスタさんはアイスを頼んでー……俺はケーキを頼んだ。それでクルベスは……ココアにしてたな。クルベスはコーヒーをよく飲んでるからそれがすごく珍しくて。多分ティジが『せっかく来たんだから』っておススメしてたから選んだんだと思う。追加のクリームは断ってたけど。それでティジは……」
 ルイはそこで言葉を切ると「何を頼んでたっけ」と再び思案し始める。それにしてもルイもよく覚えてるものだ。それはつまりその旅行はルイにとっても良い思い出だったということなんだろうな。

 それなのに。そんな彼の話を聞いてもなお、俺は結局何も思い出せないままだ。こんなにも親身にしてくれる彼らに俺は何も報いることが出来ない。
 そんな自分の不甲斐なさが腹立たしくて、でも同時にひどく悲しくて。込み上げてきた涙をグッと堪えたその時――頭の中にどこかの光景がよぎった。

 

 屋外のテラス席。向かい側にはエスタさんとクルベスさん、そして隣にはルイが座っている。彼らは何やら楽しげに話しており、自分もその会話に時折り入っている。とても穏やかで、居心地の良い時間。そんな和やかな時が流れていき、ふと思い出したように手元のスプーンを動かす。そのスプーンの先には――……。

「……もしかしてパフェとか食べた?」
 一瞬見えた光景の中で目にした物を答える。それを聞いたルイはハッと息を呑んだ。

「そう、パフェ!それだ!でもよく分かったな……!」
「えっと、なんて言うか……もしかしたらこれかなーって……」
 驚くルイに慌てて言い繕う。何故こんなことを誤魔化すのか自分でも分からない。だけど先ほど浮かんだ光景と今のルイの返答で確信した。

 いま見たのは過去の出来事だ。
 思い出したんだ。たった一瞬だけど過去の記憶を思い出せた。良い兆候だ。これまで見聞きしたことをノートにまとめたり、城の中を探索したり、多くの人の話を聞いたりしてきたけれど自身の記憶に関してはまるで手応えがなかった。だけどそれがようやく報われたんだ。

 突然好転し始めた状況に胸が高鳴る。何にせよこんな事は初めてだ。もしかしたらこの調子でルイと話していたらもっと色々思い出せるかもしれない。

 期待と喜びに心が沸き立つ。すると高揚する自分の頭の中に、ザッと先ほどとは違う情景が映った。

 そこでは目の前にオムライスが置かれていて。向かい合うように誰かが座っている。
 場所は……一瞬しか見えなかったのでどんな場所か判別することは出来なかったが、先ほど見たテラス席とは明らかに異なる場所だ。……別の店にでも寄ったのだろうか?

 

「他に……オムライスとかも食べた?」
「いや……?オムライスは食べなかったな。カフェではスイーツ系しか頼まなかったし……あ、でもオムライスなら少し前に学校の食堂で食べ……てはないな。食べ損ねてた」
 ルイはそう言うと続けて、学校の食堂に行った時の話を聞かせてくれた。それを語るルイの表情はどこか明るく。俺がパフェを言い当てた事がよほど嬉しかったらしい。

 でもそうか。オムライスは食べなかったのか。それなら今の光景は勘違いだったのかな。……いや、それにしては先ほど見た光景はやけに現実味があった。

 誰かがオムライスを作ってくれて、自分はそれを喜んで食べていた。「おいしい」と言うと目の前の『誰か』は嬉しそうに微笑んで……くれた気がする。
 だけどその『誰か』の顔を思い出そうにもそこだけ分からない。『誰か』の顔はまるで上からクレヨンで書き殴ったかのように黒く塗りつぶされてしまっていて、何も見えないのだ。

 ジリリッと頭が焼けるように痛む。あの頭痛だ。すっかり治まっていたのにどうしてこんな時に。
 駄目だ。自身の不調を悟られたらルイはきっと話を中断してしまう。せっかく思い出してきたのだからこの流れを断ち切りたくはない。とにかく今は会話を続けないと。

 

「さっきの……写真の話だけどさ。クルベスさんが撮ってくれたって言ってたっけ……?」
「あぁ、クルベスは昔からよく写真を撮ってたんだ。自分のことは全然撮らないのに、俺とか兄さんの写真は撮っててさ。撮ったあとはアルバムに綴じて、時々見返したりしてたんだ。……たぶん写真を撮ることが好きっていうよりも、その思い出の瞬間を遺すことが好きなんだと思う」
 ルイは表情を和らげて語る。その眼差しは春の木漏れ日のようにあたたかく、クルベスさんを慕う想いが滲み出ていた。

「今ではもう写真も全然撮らなくなって、あの旅行でも全く撮ってなかったんだ。でもせっかくの旅行なんだからクルベスならカメラは持って来てるんじゃないかと思って。それで聞いてみたらやっぱり持って来てたからそれで撮ったんだ。結局クルベスは『自分は撮る役でいいから』って言って写ろうとしなかったけど」
 エスタさんが撮るって言っても全然聞かなかった、と苦笑する。そんな彼の話に耳を傾けていると三度、とある情景が脳裏に映し出された。

 最初に見た光景と同じ、屋外のテラス席。自分とルイは並んで座っていて、向かい側に座っていたエスタさんが立ち上がり、自分たちの背後に回る。「よし」という声に顔を上げると向かい側でクルベスさんが優しげに微笑んでいて。「それじゃあ撮るぞ」とクルベスさんがカメラを構える。
 カメラのレンズが、無機質なガラスの瞳が、ギョロリとこちらを覗き込む。

「たしか……撮る前に緊張しちゃって……それをクルベスさんがからかってきたっけ……。それで撮る時もカメラの音に驚いて……あれ……?音に驚いた……本当に……?」
「ティジ……?どうした?」

 

 写真を撮った時、カメラの音に驚いた気がする。いや、あれは本当に『音に驚いた』なのだろうか。

 違う。自分はあの時――カメラのシャッター音とフラッシュに『怖い』と思ったんだ。
 なぜ?なぜそれらに恐怖を感じた?

 ぷつり、と糸が切れたような感覚が走る。拙いなりに縫い合わせていた糸が。何かを覆い隠していた物を繋ぎ止めていた糸が切れたような。
 切れた糸はスルリスルリとほつれて、ほどけて。口を開いたいびつな縫い目から、その内に仕舞い込んでいた『ナニカ』が姿を表す。

 息が、まるで空気中から酸素がなくなってしまったかのように吸っても吸っても息が苦しい。

 その時。ザァザァ、と砂嵐のような音が聞こえてきた。――いや、これは砂嵐の音なんかじゃない。
 雨だ。
 土砂降りの雨。

 その音が思考を呑み込む。

「ティジ!?」
 ひどく慌てふためいたルイの声が聞こえる。でもそれをかき消すほどの雨音が、空の鳴る音が頭の中を支配する。

 

 暗い部屋。
 壁を埋め尽くす自分の写真。
 誰かが自分にカメラを向けて。
「いやだ」と泣いても、その人は聞いてくれない。

 止まないカメラのシャッター音とフラッシュ。「次は動画を撮ろうか」と告げる声。
 カメラを置いた後も窓から入る強い光がまるでフラッシュのように部屋を照らす。

 けたたましい雷の音。
 這いずる手。
 夜の闇より深い漆黒の瞳。

 嬉しそうに細められたその瞳に映るのは、組み敷かれる幼い自分。

 ――ティルジア。

 目を覚ましてから何度も聞こえた声が、泣きじゃくる自分に囁く。

 ――愛してる。

 

 それが誰の声なのか。
『ぼく』はようやく思い出した。

 


 件の旅行では、実はクルベスさんのお写真は一枚だけ撮られてる。撮ったタイミングは幕間(5)『束の間の休息-5』と(6)『束の間の休息-6』の間、帰りの汽車にて。
 ティジとルイが疲れて眠っちゃった後、エスタさんが「やっぱりクルベスさんだけ何も写真が無いのは寂しいですよぉー。ほら、カメラ貸してください。俺が撮りますから」とか「それにほら、ジャルアさんへのお土産代わりにもなりますよ?」と説得もとい駄々をこねまして。
 結局クルベスさんがそれに負けてサッと一枚だけ撮ることにしました。「自然な表情を撮りたいのでクルベスさんは楽に過ごしてください!『ここぞ!』というタイミングが来たら俺が勝手に撮りますので!」というエスタさんによって撮られた物がこちら。
『すっかり眠っているティジとルイ、そんな二人を愛おしげに見つめるクルベスさん』というお写真になります。
 外の風景に思いを馳せているとか、お土産片手に話しているとかでもなく、どちらかと言うと日常的な風景に近い一枚。そんな何でもなさそうな一場面にエスタさんはビビッと来た様子。ちなみにそのお写真を見たジャルアさんは「楽しめたようで何より」とニッコニコだったそう。