放られた手とささやかな嘘 - 2/2

 エスタがふと目を開けると部屋の中はしん、と静まりかえっており、自分以外だれもいないことに気が付いた。

 クルベスさんの手が自分の目元を覆うように被せられた記憶はある。むしろそれ以降の記憶がない。とすると自分はあのまますぐ眠ってしまったのか。

 今は何時か、いったいどれだけの時間寝ていたのか分からないけれど窓の外はすっかり暗くなっている。少し寝たから日中よりはいくらか体は楽になったが所詮はその程度。起き上がる気力や体力は全く回復していない。
 息苦しさや体のだるさから気を逸らそうと寝返りを打つがそんなものは気休めにすらならなかった。

 

 ここまで体調を崩したのは久しぶりだ。
 明日のために色々考えていたのに。たくさん準備をしたのに。まさか直前になって風邪を引くなんて。楽しみにしてたのになぁ。

 嘘をついてもいい日。みんなを笑わせるような楽しい嘘ならついてもいい日。嘘、か……あれも嘘だったら良かったのに。

 熱ではっきりとしない頭をよぎるのは、六年前の記憶。
 夕暮れに染まる街。
 住宅街に似合わない、人々のざわめき。
 その中に沈む、どす黒い絶望の光景。

 あの日から俺の日常からあいつの姿だけが消えて。いつまでも当たり前にあると信じて疑わなかったものが失われて。あの日から俺の中にはどうやっても埋まらない穴が空いたような感覚だけが残された。

 嘘であってほしかった。あんな事はタチの悪い冗談で、今もあいつと一緒に過ごせていたら。

 

 思い出したくもない嫌な記憶。あの日からずっと影のようについて回る後悔。
 それらはぐるぐると頭の中で渦巻いて、それが溢れ出したかのように瞳から雫が流れ落ちていく。

 なぁ、お前は今どこにいるんだよ。会いたいよ、一目だけでもいいから。

 

 手を伸ばす。だがその手は何も掴むこともなく、そして握り返されることもなく、虚しく宙を掻くだけ。

 あぁ、情けないなぁ。何やってんだろ、俺。

「レイジ……やっぱりお前がいないと寂しいよ……」

 耳が痛いほどの静寂の中。こぼれた言葉は夜の闇に溶け消えた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 その日の午前中、「ついに明日だよ!楽しみにしててね!」とすでにはしゃいでいる様子を見せていたエスタだったが午後からその姿を見かけないことに気が付いたルイ。その事を疑問に思い、クルベスに伺ったところ、彼が風邪を引いて寝込んでいることを知った。
 見舞いに行こうとしたのだがクルベスに「風邪がうつるからダメだ。それにエスタのことだから見舞いに来たら無理して起き上がるかもしれないから、今日だけは我慢してあげてくれ」と言われ、日中は様子を見に行くことすら出来なかった。

 寝支度を整えてベッドに入ったルイは『また明日訪ねてみよう。エスタさんの体調も少しは良くなってたらいいな』と思いながら目を閉じる。
 だが『滅多に風邪を引かない、というより体調を崩した姿を想像出来ないエスタさんが寝込むとはよほど具合が悪いのか』や『風邪って夜になるとまた熱が上がったりすることもあるんだっけ』などの心配と不安が、水を吸った綿のように膨れ上がっていく。

 

 それから悶々と悩み続けること一時間。
 最終的に「少しだけ、ほんのすこーしだけチラッと様子を見に行こう」という結論に至った。もうすっかり夜も更けているのでさすがにエスタももう寝てるだろう。それなら彼に無理をさせてしまうこともないはずだ。

 こんな夜更けに出歩くことなど滅多に無いため、何だか悪いことをしている気分になりながら医務室へと急ぐ。幸い道中は誰にも見つかることなく辿り着く事が出来たが何故かクルベスの姿は無く、医務室の中は静寂に満ちていた。何か呼び出しでも受けたのだろうか。
 何にせよ好都合だ。今のうちにエスタさんの様子を見に行くとしよう。

 

 こちらの予想通りエスタは眠っていた。ベッドの中で眠っている彼の呼吸は苦しげで顔も汗でじっとりと濡れている。クルベスが戻ってくる気配はまだ無さそうだったので、ルイはひとまずその顔を近くに置いてあったタオルで拭うことにした。
 エスタを起こしてしまわないように細心の注意を払いながら顔の汗を拭き、それがひと段落するとベッドの上に投げ出されている彼の右手に意識を向けた。

 手のひらを上にして放られた手。それはまるで何かを掴もうとするかのように少し開かれていて。

 ルイはその手と熱で赤くなっているエスタの顔を交互に見遣り……数度の瞬きをおくと彼の手に自身の手を重ね合わせた。

 触れたその手はひどく熱く、まだしばらく熱は下がりそうにないことが窺える。
 重ねていただけの手をルイがそっと握る。すると反射的な反応か、エスタの手は緩い力で握り返してきた。だがエスタは目を覚ます様子はない。

 日頃目にしている彼とはまるで違う、非常に弱った姿。そんな彼の姿を見守りながらルイは「早く元気になりますように」と心の中で呟いた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「大変ご迷惑をお掛けしました……この一宿一飯のご恩、一生忘れません……」
「お前、たまに変な言葉知ってるよな。あとその言葉、使い方間違ってるぞ」
 クルベスの冷静な指摘にエスタは「うえぇ……まじですか」と嘆く。
 結局次の日までたっぷり寝て、ようやく動けるまでに回復したエスタ。だがまだ風邪が治りきっていないためか、本調子ではない様子。心なしか声も弱々しい。

「本当に大丈夫か?なんだったら今日もコッチに泊まっていってもいいんだぞ」
「いえ、父さんと母さんからさっき帰ってきたって連絡が来たので大丈夫です。とりあえず今日いっぱいはしっかり休んで……ティジ君たちの誕生日までには治してきます」
 現在は4月1日の昼前。ティジたちの誕生日は明後日の4月3日だが果たして大丈夫だろうか。

「まぁ……今日はゆっくり休め。でも当日、調子が悪いのに無理して来たら問答無用で帰らせるからな」
「分かりました、全力で治します」
 クルベスは「ゆっくり休めって言ってんだろ」と呆れた顔をするがエスタは頑として譲らない。ここまで来たら彼の風邪が一刻も早く治ることを願うばかりだ。

 

 ひとまずクルベスに別れを告げていつもより遅い歩みで通路を進んでいく。『明後日までには治ってるかな。治ってるといいな……いや、絶対治る。治してみせる』と変な方向に決意を固めていると何という偶然か、あるいは運命のいたずらかルイとばったり会った。

「エスタさん、動けるようになったんですね」
「うん、一応ね。でもまだちょっとしんどいから今日は家に帰ってゆっくり休むことになりました」
「そうだったんですね。それなら……もしエスタさんが良ければ通用口まで見送らせてもらってもいいですか?」
 ルイの申し出にエスタは「もちろん。断る理由が無いしむしろ嬉しい」と頷く。
 昨晩見た状態から幾分か回復している様子にルイは内心ホッとしながらエスタの隣に並ぼうとする。……が、何故かエスタはいそいそと遠慮がちに遠ざかった。それにルイは首を傾げながら彼に近づくも、やはりエスタはルイと一定の距離を保つように緩やかに遠ざかってしまう。

「いや、えっと……弟くんに風邪をうつしちゃったら悔やんでも悔やみきれないから……本当にごめん、今日はこの距離で許して」
「いえ、大丈夫です。むしろ俺と一緒にいることで無理させてたらそっちのほうが申し訳ないというか……」

 

 まだ風邪で苦しいのか普段と比べて口数も少ないエスタとそんな彼に付き添うルイ。少し会話が落ち着いた頃、エスタは「あ、そうだ」と自身の右手を見つめて口を開いた。

「昨日の夜、なんか誰かが手を握ってくれたような気がするんだよね。気のせいかもしれないけど」
 エスタの呟きにルイはドキリと肩を跳ねる。だが真剣に考え始めたエスタはそれに気付かず「うーん」と頭を悩ませる。

「クルベスさんは手を握るよりは頭撫でてそうだから違うかなぁ。クルベスさんの話によると、夜中に上官が俺の調子を聞きに来たらしいんだけど……でも簡単に話をしただけで顔までは見に行ってないっぽくて。いや、上官の場合は手を掴んだ後『風邪ひくのは日頃の鍛錬が足りてないからだ。いまから徹底的に鍛えてやるから覚悟しとけ』ってそのまま背負い投げでもしてきそうだな。まじで誰か分からないな……弟くんは誰だと思う?」
 エスタの話を『もしや昨夜クルベスが不在だったのは上官と話をしていたのだろうか』とぼんやりと考えながら聞いていたルイ。まさか自分に話を振られるとは思わなかったため、ルイは動揺を隠しながら「そうですね……」と考え込むふりをする。

 

「誰でしょう……すみません、全く分からないです」
「だよね。ごめんね、変なこと聞いちゃって。クルベスさんにも聞いてみようかと思ったんだけど、手を握ったのが万が一クルベスさんだったら何か恥ずかしいし。弟くんだったら聞けるかなと思ったんだけど……そうだよね、弟くんが分かるわけないよね」
 たはは、と笑うエスタ。その様子にルイはひっそりと安堵の息を吐いた。
 ここぞと言う時は勘が鋭いところを見せるエスタだが風邪でその勘も鈍っているようだ。もしも気付かれたらこちらは恥ずかしいどころの騒ぎではないので、エスタにはこのまま気付かないでいてもらいたい。

 

「まぁ……その人はエスタさんが早く元気になることを祈って手を握ったんじゃないですか。……いや、本人じゃないのでただの想像でしかないですけど」
「そうかな、そうだと嬉しいなぁ。じゃあその誰かのためにもはやく風邪なんて治しちゃわないとだね!そんでもってティジ君の誕生日を全力でお祝いする!」
「まだ治りきってないんだから張り切り過ぎないでくださいよ。それでまた具合悪くなったら大変です」
 ルイにたしなめられたエスタは「あはは、弟くんに言われちゃしょうがないな」と決まりが悪そうに頭を掻いた。

 


 4月1日は嘘をついていい日、というイベントについてはティジたちやクルベスさんなどの面々は全くもって馴染みが無かった様子。
 知ったところでジャルアさんやクルベスさんなどの保護者たちは「まぁ確かに面白そうだと思うが子どもたちがなぁ……あの子たち素直だから、嘘をついてもそれを嘘だと気付かずそのまま信じ込みそう」と憂慮する。

 なお、もしもエディさんが知っていたら嬉々として乗ります。なのでエディさんにはクルベスさんから「その日は終日、城に出入り禁止な」と出禁を言い渡される。そして妙な間を挟んだのちクルベスさんが「……冗談だよ」と付け足すけれど、エディさんから「え、本当に冗談?結構本気で言ってなかった?」と聞き返されます。