09.境目-4

 クルベスに連れ出されたルイ。すぐ近くのクルベスの私室で話をするのかと思っていたが、何故か元来た道を戻らされる。
 その道中、息を切らしたエスタと鉢合わせた。

「なんか、ティジ君が運ばれたって……何かあったんですか……?」
 エスタの口振りから推察するにどうやらクルベスがティジを運んでいるところを見た者がいたようだ。エスタのまっすぐな視線にクルベスは居たたまれない様子で目を逸らすと、ボソリとこぼした。

「……あのこと、思い出した」
 端的に発せられた言葉。だがその言葉だけでエスタは「そんな――っ」と青ざめる。

「それってまずいじゃないですか!何でそんなことに……!いや、それよりこんな所に居る場合じゃないでしょ!ティジ君を放っておいちゃ――」
「気を失ったから医務室に寝かせてる。今はジャルアが見てくれているからそっちは大丈夫だ。……すまんがエスタ、ここら辺を見張っててくれないか。これからルイに話す」
「え、あ……弟くんも居た……んだね」
 エスタはそこで初めてルイの存在に気づいたのかどこかよそよそしい態度で声を掛ける。出来るだけ普段と変わりない様子を取り繕おうとしているが、その笑顔はどこかぎこちない。
 いまの会話でルイはおおかた察した。エスタもこの件については以前から知っていたのだと。

「じゃあえっと……俺はここで見張ってるんで。何かありましたら言ってください」
 エスタはばつが悪そうに頭を掻くと、ルイの視線から逃げるように見張りに徹した。

 

 クルベスに誘われ、ルイはすぐ目の前のティジの部屋に足を踏み入れる。部屋の中は少し前に出た時と変わらない。ティジが暴れた痕跡が残っていた。
 クルベスは手近に転がっていた椅子を起こし、そこに倒れるように座り込む。そうして深く息を吐いたクルベスは扉の前で立ちすくんでいたルイにもひとまず座るよう促す。ルイが戸惑いながらも勉強机のそばに置かれていた椅子に腰を下ろす様子を確認すると、クルベスはようやく重い口を開いた。

「……あれ見てどう思った」
 クルベスが指すのはおそらく先ほど目にしたティジの様子のことだろう。
「びっくり……した。あんなの、見たことない……」
「だろうな」
 じゃなきゃ今のいままで普通に過ごせねぇよ、とクルベスは呟く。

「なぁ、今から話すことは誰にも言うなよ。一部の人間しか知らないんだ」
 ティジの家族とエスタ、この件を担当した国家警備隊とエディだけが知っている、と続けた。
 なぜ、国家警備隊が関わってくるのだろうか。

 

「今から十一年前……ティジが6歳の時だ。あの子、行方不明になってた時期があるんだよ」
「ゆくえ、ふめい?」
 そんなの初耳だ。だってそんなこと、ティジの口から一度も聞いたことがない。
 だがルイが驚くことも想定内と言わんばかりにクルベスは話を続ける。

「その年の六月末。その日、ティジは護衛の衛兵と一緒に国立公園に出掛けていた。だが『手洗いに行く』と言って離れたのを最後に、あの子は姿を消した。……あの子が見つかったのはそれから一ヶ月経った後のことだった」
 一ヶ月という長い期間にルイは息を呑んだ。

「ティジはある男の家にいた。保護された時、あの子は気を失っていたらしい。身なりはきれいで怪我もほとんど無い、一ヶ月前とほぼ同じ。表面上は何事も無かったかのような状態だった」
 含みを持たせたかのようなクルベスの言い方に一抹の不安がよぎる。「いったい何があったんだ」と言おうとするが、喉がひどく乾いて声が出ない。ごくり、と唾を飲み込む音が嫌に大きく聞こえた。

「保護されてから数日経ってもティジは何故か目を覚まさなくて、そしたら事件の担当をしていたエディから呼び出されたんだ。そこで……あの子に何があったのか聞かされた」
 ルイは静かに次の言葉を待つ。ルイの目の前でクルベスは幾度も口を開き、続きを話そうとするが、そのたびに言葉を詰まらせて苦しげに息を吐く。何度かそれを繰り返し、やがて気合を入れ直すかのごとく歯を強く噛むと話を再開した。

 

「ティジをさらったのはリエ・サトワという男で……そいつは、俺とジャルアの同級生だった。あいつとは学生時代ほとんど交流はなかったが当時から何か変わった奴だと思ってた。おかしな行動をするとかそういうのではなくて、ただ何となく近寄りがたいというか……こっちの神経が訳もなく過敏になるというか……。いや、俺の話はどうでもいいな」
 クルベスは「悪い、話が逸れた」と頭を掻く。

「ティジとはいったい何がきっかけで知り合ったのか分からない。でもティジはときどき街に出掛けた時、リエと密かに会っていたみたいだ。護衛の衛兵にはもちろん、俺やジャルアたちにも隠して。ティジがこの事を黙ってたのは『外部の人間と勝手に交流してるって知られたら怒られる』とでも思ったんだろうな。リエとは結構仲良くしてたみたいだ。そいつが、ティジをさらって……あの子を……あいつは……っ!」
 クルベスは苦悶の表情で歯を食いしばり、握りしめた拳で膝を強く殴る。振り下ろされた拳は小刻みに震えていた。

 

「あいつの家から大量の写真と映像が押収された。そこには……ティジが犯される様子が写されていた」

 クルベスが告げた言葉に、一瞬呼吸が止まり、世界から全ての音が消えた。

 脳が理解を拒む。何かの冗談なんじゃないか、と現実逃避したい自分がいた。
 だが憔悴しきったクルベスの表情が、先ほど見たティジの姿が、それは悪い冗談ではなく事実なのだと表していた。

 

「エディに頼んで押収された映像を見せてもらった。ティジの心のケアのために何があったのか知っておく必要があったから。……ひどいものだった。泣き叫んで、やめてって、いやだって何度も叫んでいたのに……それを聞かずに、ずっとあいつは……っ!」
 その凄惨な光景に耐えきれず、映像を見た後に吐いたという。

「映像の中でリエがずっと楽しそうに笑ってるのが聞こえた。暴れるあの子に何度も『愛してる』『愛してる』って言っているのも」
 クルベスは声を震わせながら語る。その目には涙が滲んでいた。

「押収された写真や映像に同じ物は一つとして無かった。全部違う場面を写した物で……そんなおぞましい物がおおよそ一ヶ月分あったんだと。行方をくらました一ヶ月間、ティジはずっとあいつに……たった6歳の子どもが……っ」
 クルベスはそこで言葉を切り、しばし黙り込む。一方でルイは、リエという男がティジにおこなった残酷な所業にめまいを覚え、呼吸をすることが精一杯だった。
 やがてクルベスは深く息を吸い、そして吸った時と同じくらいに深く吐き出すと再び言葉を紡ぎ出す。

 

「その日の夜、保護されてからずっと眠っていたティジは目を覚ました。目を覚ましたあの子は……記憶を無くしていた。ジャルアによると『自分自身に記憶操作の魔術をかけた』ってことらしい」
 その発言にルイは違和感を覚える。その違和感の正体が何であるかはすぐに思い出した。

「なぁ、ティジは前に『記憶操作の魔術は使えない』って言ってたぞ?でも今の言い方だとまるで――」
「使えるんだよ。あの子は自分が記憶操作の魔術を使ったって事すら忘れてるけどな」
 だがな、と続けざまに言葉を吐く。

「ティジに『お前は記憶操作の魔術も使える』って言うわけにはいかなかったんだよ。そんなことを知ればあの子はきっと興味を持つ。その力が下手に働かないように扱い方だって知ろうとするだろう。ジャルアに教えを乞う可能性だって十分考えられる。じゃあ迂闊に使ってみて、万が一記憶が戻ったら?そしたらもう取り返しがつかないんだよ。だから幼いティジに『自分には記憶操作の魔術は使えない』って思い込ませるよう誘導して……そうして平穏に過ごせてきたわけだ」
 それも今日までの話だったけどな、とクルベスは眉間にシワを寄せる。

 

「記憶についてだが……行方不明になっていた一ヶ月のことと、リエに関することは全て無くなっていた。それから事件より前にあった出来事もかなりの範囲で失われていた。信頼してた人間に裏切られて自分の心を守ろうとして、扱い方もろくに知らない魔術を無理に使った結果なんだろうな。……あんな酷い目にあったのに、ティジは何事もなかったかのように笑ってんだよ。そんな姿、とても見ていられなかった」
 この城に移り住んでから今日まで見てきた、ひまわりのように眩しい笑顔を思い出す。その笑顔に心を痛めてしまうほどなのだ。クルベスが見た暴行の映像は想像を絶するほどの内容だったことが窺えてしまう。

「お前が拾ったあのしおり。あれと同じ物をリエは持っていた。しおりにある押し花はミスミソウって名前の花でな。城の奥にある庭園の温室に同じ花が咲いてる。……あれな、すっげぇ希少な花なんだ。他の国から友好の証として譲り渡された花だから処分なんて到底できない。だからティジに見せないように極力鍵をかけて密かに管理することにした」
 そういえば庭師のじいさんにもこの件は話してたか、と呟く。

 

「このことに関しては禁止事項があったんだ。ティジの前ではおこなってはいけない禁止事項。いくつも設けられたがティジの様子を見て『禁止を解除しても問題ない』と判断できたものは少しずつ解除していった。だがその中でも二つ、事件から十一年経った今でも絶対に破ってはいけない物があった」
 クルベスはそう言うと指を二本立てる。その指先をじっと見つめながらぽつりぽつりと唇を動かした。

「『愛してる』ないしはそれに準ずる言葉をティジに聞かせること。ミスミソウという花の存在を教えること。この二つはリエの件と密接に関係しすぎている。だから何があってもティジの前では絶対に行わない。あの子を守るためにジャルアやサフィオじいさんたちと一緒に決めた。これだけは破ってはいけなかった」
 それなのに、と顔を歪める。

「あのしおり……ミスミソウの押し花がされてる上、ご丁寧にも『あいをこめて』なんて書きやがって……あんな物が、あんな物のせいで……二つの禁止事項を同時に破った」
 クルベスは怒りか憎しみか、はたまたこの事態を防げなかったやるせなさからか、拳を強く握りしめる。
 その様子からティジが同じ物を持っているとは思ってもみなかったようだ。あのしおりの存在はクルベスたちにとって全くの予想外だったのだろう。

 

「ティジは雷を異様に怖がる。それを疑問に思ったことはないか?」
「まぁ……そりゃあ多少は思ってた……けど」
 クルベスの問いかけにルイは少し嘘をついた。疑問に思わなかったことなんてない。それまでどれだけ上機嫌だろうが雷が落ちるとひどく怯えて、人が変わったかのように泣き始めるのだ。
 ここまでの話の流れでこの話題が出るということは、まさか。

「リエの家があった地域、あそこは七月になるとよく雷雨に見舞われていたらしい。多分ティジもずっと雷の音を聞いてたんだと思う。記憶はなくともその当時の恐怖だけは残ってたんだろうな」
 雷をあんなに怖がるのも無理はない、とクルベスは力無く首を振った。

「お前がこの城に来たとき、ティジのことを本名である『ティルジア』じゃなくて略称の『ティジ』って呼んでくれって言ったろ?そのほうが呼びやすいからって理由で。あれは呼びやすさなんていうありきたりな理由じゃない。リエが映像の中でずっとティルジアって呼んでたから、少しでもあいつの記憶から遠ざけようとして、そう呼ぶことに決めてたんだ。でも最近ではもう問題無いって判断して、少しずつちゃんと呼んでみようって話もしてたんだけどな」
 自分の知らないところでも彼らはこの問題と向き合い続けていたんだ。自分は気にも留めないような些細な事にも気を張って……いや、それすらも考慮しなければならないほどの出来事だったということか。

 

「それにお前らが12歳の時、ティジの母親が亡くなった時。おそらくティジはあの温室でミスミソウを見て記憶を取り戻していた。あの時のティジは自分に近づく人間は全て拒絶して、もう人と関われない状態になっていた」
 でも、とクルベスはルイの目を見据える。

「でもお前だけはかろうじて近くに居ることが出来た。リエのことがあった当時――6歳の時にはまだ関わりが無かったからか、はたまた別の理由か……どういう理由かは分からないが、お前だけは別だった。サフィオじいさんもユリアさんも亡くしたあの時、お前に協力してもらうしか道は無かった。あの時、ティジの記憶を書き換える前に『ティジが俺に気づかないように気を逸らしてほしい』って頼んだだろ?あの状態だとティジは大人の男性を見るとより一層取り乱す可能性は十二分にあった。そしたら精神に直接干渉する記憶の書き換えなんて不可能だ。だから、お前に……」
 段々とクルベスの声が弱り、最後は消え入りそうな声量になる。ルイは静かに待つがそれ以上何か続ける様子はない。
 背を丸めて息を詰まらせる、ひどく小さく見えたその様相が『これが十一年間秘められてきた全てだ』と表していた。

 

「……ティジは、目を覚ますのか?」
「分からない……仮に目を覚ましてもどんな状態か……思い出さないほうがよかったのに……最悪な形で、あいつは思い出してしまった……っ」
 静かに涙を流すクルベスにかける言葉が見つからなかった。

 


 ルイにとっては何でもないような事でも大人たちは生きた心地がしなかったり、ティジにもしもの事が起こらないように細心の注意を払う、心労が絶えない日々を送っていたようです。隠さなきゃいけないことがあると迂闊に気を抜けない。