16.淡彩色の記録-2

 結局、自分が記憶喪失だと知ったその日の夜はそのまま医務室で眠ることとなった。クルベスさんから「こんな状態で一人にさせるのは心配だから」と言われたからだ。

 それに加えて「しばらくの間は一人で行動せずに必ず誰かと一緒にいるように」と言いつけられた。基本的には衛兵のエスタさんが自分のそばにいてくれるらしい。
 自分に付き合わせてしまうことに少し申し訳なく思ったけれど、エスタさんは「衛兵の仕事はお城の平和と安全を守ること!ティジ君のこともバッチリ守っちゃうからね!」と元気はつらつに言ってくれた。

 

 

「ティジ君、頼まれてた物持ってきたよー。こういうので大丈夫だった?」
 あれから一夜明けた昼下がりのこと。医務室に入ってきたエスタさんは自分に一冊のノートを渡すと、自分と一緒にエスタさんを待ってくれていたルイに「お留守番ありがとね」と言った(エスタさんがいない間、代わりにルイが自分と一緒にいてくれたのだ)。

 エスタさんに礼を言って、早速ノートを開いて書き込み始める。
 とっ散らかった頭の中を整理しながら、時折ペンを止めながらも少しずつ紙が文字で埋まっていく。やがて最初の数ページがあらかた埋まった頃、ようやくペンを置いた。書いた内容に目を通して、書き漏らしている事は無いか確認しているとエスタさんが遠慮がちに口を開く。

 

「ティジ君、それって何書いたの?もし良かったら教えてくれたら嬉しいな」
 そこでようやく自分が何の説明もしていなかった事に気付く。突然一心不乱にノートに何かを書き込んでいたら誰だって驚くだろう。目の前の事に集中しすぎて周りが全く見えていなかった。

「昨日教えてもらった事とかみんなのことを書いていたんだ。書くことで覚えられるかもしれないし、こうやって書いておけばまた何かあっても大丈夫かなー……って」
 自分の説明にエスタさんは「そういうことか」と手を叩いた。
 実際に見てもらったほうが何を書いているのか分かると思うし別に見られて困るものでも無いため、エスタさんとルイにもノートの中を見せる。……じっくり見られると何だか緊張するな。昨日聞いた事だけを書いたつもりだけど、間違えて覚えている可能性も無いとは言い切れないし。

 

「すごいな。俺だったらそういう発想すら出なかった。へぇ、俺のこともしっかり書いてくれてる。ティジ君、自分のことも書いてるんだね。さっき『僕』とか『俺』って呟いてたのもこれが関係してるの?」
 エスタさんの指摘にギクリとする。知らないうちに声に出していたのか。

「えっと……自分って自分の事は何て言っていたのかな……と思って」
 どれも合っているような気がして、だけどどれもしっくり来ない気もする。個性的な一人称だったらどうしよう。

 言い方一つでここまで考え込むなんて気にしすぎかもしれない。でも一度疑問に思ってしまったらどうにも気になって仕方がないのだ。もしかすると記憶を失う前の自分がそういう性格だったのかもしれない。よし、忘れないうちにこれも書いておこう。

 エスタさんからノートを受け取り、自分に関するページに『探究心が強い性格?』と書き足す。そうして再び「僕……俺……私……」と呟き始めた自分を見兼ねてエスタさんが助け舟を出した。

「ティジ君は自分の事を『俺』って言ってたよ。少なくとも俺がここに来た時にはそう言ってた」
「そうだったんだ。じゃあこれからは『俺』って言おうかな。俺……俺……うん。何かこっちのほうが良い感じって気がする」
 何回か繰り返し声に出して、パズルのピースがピタリとはまったような感覚に頷く。実を言うと昨日からずっと気になっていたので胸のつかえが取れた気分だ。
 ところで『エスタさんがここに来た時』っていつの事なんだろう。しまった。疑問がひとつ解消されたと思ったらまたひとつ増えてる。どうしたものか。

 

「……昔は『僕』って言ってた。エスタさんがここに来る少し前から『俺』って言い方に変えたけど」
 ルイの補足にエスタさんは「何それ、初耳」と興味を示す。だけどルイはなぜ俺が一人称を変えたのか語ろうとしない。でも最終的に俺とエスタさんの興味津々な視線に根負けして、気恥ずかしそうに当時の事を話してくれた。

「クルベスが『俺』って言ってるのを最初に俺が真似て……それにティジが『ルイがやるなら自分もやる』って言い出したんです。……そういえばあの時『クーさんとルイ、みんなお揃いだー』とか嬉しそうに言ってたな」
「めちゃくちゃ仲良しさんだね。ところで弟くんは何でクルベスさんの言い方を真似たの?」
 その質問が来ることを予想していたのかルイは決まりが悪そうにうなる。

「何か……格好良いなって……ていうか俺の話なんて別にいいでしょ、って何でティジも書いてんの?そんな事まで書かなくていいから」
「いちおう書いておこうと思って」
 念のため書いていたけれど顔を真っ赤にしたルイに止められてしまった。でも大雑把な内容は書けたのでおそらく後で見返してもすぐに思い出せそうだ。

 

「でもそういう話があったなんて、記憶を失くす前の『俺』はルイと仲が良かったんだね」
「あ……あぁ……うん、そうだな」
 ルイは少し言葉を詰まらせながら頷く。エスタさんも何かに気づいた様子で少し表情が硬い。妙に気まずい沈黙が流れる。

「えっと……あ、いや『仲が良かった』っていうのはそんなに深く考えて言ったわけじゃなくて……」
「大丈夫。ちょっと何て言うか……」
「少し驚いちゃったね。あらためてその、ティジ君の記憶がね?あー……そうなんだなーって実感したって感じで。いや、ごめん。俺も変な言い方しちゃってる」
 言い方が気に障ったのかもしれない、と考えたのだけど二人はそれを否定した。エスタさんはルイの肩に手を置いて「ね?弟くん」と呼びかけ、ルイは「そう……ですね」と口ごもる。それを確認したエスタさんは「さっきの話だけどね」と話題を戻した。

「弟くんはティジ君とすごく仲良しで、俺としては二人はいつも一緒にいるイメージがあるかな。学校でのお話をしてくれる時も二人ともお互いの名前がよく出てるし。あぁ、あと俺がここに来たばっかりの時にも一緒にお城の中を案内してくれたっけ」
 エスタさんは「懐かしいなぁ」と当時を思い出してしみじみとする。そんな彼自身もこのような些細な思い出話がすぐに出てくるあたり、記憶を失う前の俺とは結構交流があったのだろう。
 そのままエスタさんは学校の送り迎え時の話をし始めたのでうんうんと頷きながらノートに書き留めていく。そこでふと、ある事に気付いた。

 

「そういえばルイって学校はどうしてるの?」
 俺はこんな状態だから学校に行くなんてとても出来ないだろう。だけどルイは今日の昼からずっと俺と一緒にいる。カレンダーによると今日は平日だが……もしかして学校の創立記念日などの理由で休みなのだろうか。
 俺が洩らした疑問にルイは気まずそうに視線を逸らす。その反応に首を傾げているとやがてぽつりと呟いた。

「……自主休講した」
 ルイはそれだけ言うとまたも口を閉ざす。あとに聞こえる音は部屋の時計がカチコチと時を刻む音だけ。そうしてルイの言葉の意味を理解するのに秒針が一周するほどの時間を要した。

「何で?」
 だけどやっぱり理由が分からなかったので聞き返す。
 自主休講。つまり本来は休む必要が無いのに自主的に休んだということだ。しかもルイはまるで何か悪いことをしたかのように目を泳がせていることも非常に気になる。余談だがルイの様子から彼は普段は真面目に授業を受けるタイプだと窺えた。

 

 純粋に疑問に思っただけなのだがルイはなかなか答えず何度も言いかけては止め、言いかけては止め……を繰り返す。
 いったい何を迷っているんだろう。もしや個人的に行きたくない事情でもあったのだろうか。ならば余計な事を聞いてしまったかもしれない。
 そこまで考えて「やっぱり言わなくて大丈夫」と言おうとした時、ルイはようやっと答えを口にした。

「心配……だったから。……別にティジが気負う事はないから。昨日ちょうど体調を崩して早退してその延長で休めたし」
「いや、そうは言っても……俺は大丈夫だよ。まぁ記憶はあれだけど……ほら、体はこの通り元気だし。ルイまで休まなくて大丈夫だよ」
 手を広げて大丈夫だとアピールする。それでもルイは「だけど……」と食い下がるので「それよりも」と続けた。

「俺は今行けないから、その間の学校の話とか外の話を聞かせてほしいな。学校の様子とか知られたら『また学校に行ける』ってなった時に早く馴染めるかもしれないし」
 だからお願い、と頼む。だけどルイはなかなか頷かない。お互い一歩も引かず完全な膠着状態だ。どうしよう。ところで記憶を失う前の俺はルイと喧嘩した事はあったのだろうか。
 そんな俺たちにエスタさんが「それじゃあさ」と割って入る。

 

「ひとまずクルベスさんに聞いてみるって言うのはどうかな。ほら、学校の手続きとかはあの人がやってくれてるから一応聞いてみたほうが良いと思うんだよね。それに送り迎えの時は誰がついていくかー、とかそういう問題もあるし」
 どうやら学校までエスタさんが送り迎えしてくれていたらしい。でも今は記憶を失くしている俺の見守り役として付き合わせてしまっている状態なので『ルイが登下校する際にどちらに付き添わせるべきか』という問題が発生してしまうようだ。
 この問題にエスタさんは「さすがの俺でも二人に増える事は出来ないからね」と笑う。彼は冗談っぽく言っているが確かにこれは深刻な問題だ。少なくともこの場で決められる事ではない。

 エスタさんの提案にルイと一緒に頷いて、ついでに『学校の送り迎えはエスタさんが担当している』とノートに書き加える。
 はじめに書いた時よりも少し余白が埋まった。でもまだ分からない事は多い。このノートが全て埋まる頃には記憶が戻っているだろうか。……戻るのだろうか。

 


 今回エスタさんがノートを持ってくる前に、クルベスさんに「ティジがノートを欲しいと言っている」と共有ならびに許可を取っている。ノートを渡す前には内容(主にデザイン)に問題が無いか確認もしてもらってます。ノートひとつで凄く大変。
 ちなみにこんな工程を挟んでいるなんてティジは当然知らない。