あらゆる生き物が寝静まる夜闇に包まれた部屋の中。寝支度を整え、ベッドの上に座ったティジの表情はひどく沈んでいた。
結局、夕食の席ではサクラは顔を見せなかった。クルベスさんやエスタさんに聞いても、少し部屋で休みたいのだそうだ、という事しか教えてくれなかった。
サクラの涙が、「ごめんね」と何度も謝る声が頭から離れない。次に会った時、どんな顔をすればいいのか分からない。なんて声を掛ければいい?
終わりの見えない自問自答を頭の中で何度も何度も繰り返す。今ここで考えても答えが出ない事は自分でも分かっていた。こんな時、クルベスさんやエスタさんに聞いてみたら何か良い案が見つかるのだろうか。
だが二人に話すとなったら上手く言葉に出来る自信はない。そもそもこんな時間だと二人はもうとっくに眠っているだろう。じゃあ二人に会うのは明日にするとして、明日のためにも今はとにかく寝ないと。
そう自分に言い聞かせてベッドに入るも意識は日中の出来事に向いたままで。ただ痛いほどの静寂が部屋を満たし、罪の意識が自身を苛み続ける。とても眠りにつける状態ではない。でも寝なければ。
目を閉じて明日の予定を考えたり、ベッドの中で何度も寝返りを打ったりなどしてしばらく奮闘してみるが眠気は微塵もやって来ず、そうしてる間にすっかり目が冴えてしまった。
……もしかして同じ体勢でいる事が良くないのか?いっそのこと少し体を動かせば、外の風にでも当たれば落ち着いてくれたりしないだろうか。
他に良案も思いつかないためベッドから身を起こし、足の赴くままに部屋の外へと出る。静まり返った通路に出たがどこに行くかも決めていない事に気づいて足を止める。
そこでふと、日中は「迷子にならないように」とエスタさんと常に行動を共にするよう言われていた事を思い出す。ならば夜間に勝手に出歩くなど言語道断だ。エスタさんが言うには記憶を失う前の自分は極度の方向音痴だったらしいので、迷子になる可能性は十二分にある。
後先を考えないで行動しようとしていた自分にため息を漏らしてしまう。だがこのまま部屋に戻ってもまた振り出しに戻るだけなので、せめて少しの気分転換になってくれる事を願いながら窓の外に目を向けた。
星々の煌めく夜の空。その中心に浮かぶ月は夜の闇を溶かすように淡く優しい光を帯びている。何をするでもなく、それをぼぅっと眺めていると何だか不思議な気分に陥った。
いつの日か、以前にもこうして空を眺めた気がする。
その時は窓の外には雲ひとつない青空が広がっていて。大空の中を鳥がはばたいていた。
――あんなに自由に何に縛られるでもなく。今のぼくとは大違いだ。
「どうして……」
どうして?
自然と口をついて出た言葉に首を傾げる。自分はいったい何に対してそう思ったのだろう。
「これはご子息殿。このような時間にお会いできるとは思いませんでした。こんな夜分にお出掛けとは、いかがなさったのです?」
突如飛び込んできた声にハッと我に返る。声がした方向へ振り向くとそこには老齢な男性が佇んでいた。微かに見覚えはあるのだがすぐに思い出すことができない。
「少し眠れなくて。気分転換に空を眺めていたんです」
「そうでしたか。いやはや、星々の下で物思いにふけるというのもなかなか乙というもの。月の光を受けた貴方様のお姿はこの世のものとは思えぬような美しさをまとっておられて、こちらも思わず息を呑んでしまいました」
褒めてくれている……と受け取って良いのだろうか?過剰な美辞麗句に返答に困ったもののこの場ではひとまず笑って受け流すことにした。
「しかし夜風で体を冷やしてお風邪を召されては大変です。御身のためにもあまり夜更かしはなさいませんよう」
「はい、お気遣いいただきありがとうございます」
ボロを出さないように慎重に受け答えをしていた折に、この人物の正体を思い出す。先日遭遇した元老院と呼ばれるご老人のうちの一人だ。
確かこの人は自分が記憶を失くしていることは知らないのだったか。それとエスタさんの話によると自分が記憶を失う前もあまり交流は無かったんだっけ。
「ですが貴方様も陛下もそのお立場ゆえのご心労は尽きないでしょう。私どもでお力添えできる事があれば遠慮なく申し付けてくだされ」
元老院は言動こそこちらを気にかけてくれている様子はあるものの、その視線はまるで珍妙な生き物を観察するかのような印象を受けた。
もしかしたら気のせいかもしれない。だがその目が自身の髪を、瞳を見るとその軌跡をなぞるように言いしれぬ不快感がじっとりと張り付いて……この目は、苦手だ。
本音としては早いところ会話を切り上げて部屋に戻りたい。だが顔を合わせて早々に部屋に引っ込んでしまったら相手の気分を害してしまう可能性がある。
どうしたらこの状況を打破できるか頭を悩ませながら元老院に当たり障りのない相槌を打つ。するとそこへまた新たな足音が聞こえてきた。
「あ……父さん」
「おや、国王陛下。貴方様にまでお会いできるとは」
「あぁ、良き偶然で。早速で申し訳ないが息子に用があるのでよろしいでしょうか」
脇目も振らず、こちらまでまっすぐ歩いてきた父さんは元老院が「ええ。こちらこそお引き止めしてしまい申し訳ない」と応えるや否や、強引に俺の手を取る。
「それでは、ご機嫌麗しゅう」
父さんは元老院にそれだけ言うと俺の手を引いて、そのまま俺の部屋に入った。扉を後ろ手に閉めた父さんは俺のベッドに座って「ふぅ」と息を吐く。それから自身の隣をポフポフと叩いてそこに座るよう促してきたので、父さんが叩いたあたりの場所に腰を下ろした。
「父さん、俺に用事って?」
「あぁ、えっと……昼の話し合い、最後のほうはバタバタしてただろ。もしかしたらまだ聞きたい事とかあったんじゃないかと思って」
「いや、聞きたい事は大体聞けたから大丈夫」
「そうか……遠慮とかしてない?」
父さんの問いに「うん」と頷く。それを聞くと父さんはもう一度「そうか」と呟いた。
しばしの沈黙。『しまった。何でもいいから何か質問しておけば良かった』という後悔が遅れてやってくるが後のまつりである。気まずさから逃げるように視線を彷徨わせて次の話題を探していると、父さんが「それにしても」と口を開いた。
「こんな時間に外に出てるなんてどうしたんだ。……あ、もしかして昼にぶつけたところが痛むのか?この時間ならクルベスもまだ全然起きてるだろうから何だったら痛み止めでも貰いに行ってもいいと思うぞ」
父さんは怪我の具合をみようとしたのか一瞬手を伸ばすが、その手が頭に触れる直前に「悪い、触ったら痛いよな」とすぐに膝上に戻す。その眼差しは先ほどの元老院のものとは全く違う、本当にこちらの身を案じてくれていると分かるあたたかさを帯びていた。
「怪我は大丈夫。本当に少し、眠れなくて……」
父さんに心配を掛けてはいけない。その一心で何とか言葉を発すると、それと同時にポロポロと涙があふれ出してきた。慌てて止めようとするも自身の意思と反して勝手に涙が出てきてしまう。
「……サクラの事か?」
こちらが言葉にせずとも父さんは全てを察したように問いかける。でもそれに応える余裕は無い。先ほどまで落ち着いていたはずなのに次から次へと涙があふれて止まらないのだ。
『サクラとルイ。もしかしたらこの二人はお前が記憶を失くしてるって事実をまだ受け止めきれていない可能性がある。だから質問している時に二人の様子が変だと思っても指摘しないであげてほしいんだ。約束できるか?』
自分が「みんなと二人きりで話し合いをしたい」と言った時にクルベスさんから言われた言葉が脳裏によぎる。
クルベスさんから言われていたのに。それなのに俺はサクラを泣かせてしまった。
傷ついたのはサクラのほうなのに。自分が泣いてしまっていたら父さんを困らせてしまうのに。頭では分かっているのに、記憶と一緒に涙の止め方まで忘れてしまったのか、幼子のように泣きじゃくる事しかできない。
「優しいお前の事だ。きっとお前はいま、無理して涙を止めようとしているだろ。でも自分の意思とは関係なく、涙はどんどん出てきてる」
父さんの言葉に小さく頷く。父さんには全てお見通しのようだ。
「それはな呑み込んだ言葉や我慢した想いの代わりに涙が出てきてるんだ。内側でグッと堪えたものが代わりに涙として出てきてしまったんだよ。サクラも同じだ」
「サクラも……?」
涙を拭う手を止めて、顔を上げる。そこには優しく微笑む父の顔があった。
「あぁ。お前に傷つけられたからじゃない。サクラも今のお前と同じように自分の中で堪えようとして、その代わりに涙が出てきちまったんだ。……お互い少し落ち着いたら、次はきっと大丈夫。大丈夫だから」
布団の端を掴むとそれを膝に掛けて、トントンとあやすように優しく叩く。
「それこそ、明日会ったら案外普通に話せるかもしれない。だから明日のためにも今日はもう休め」
父さんはそう言うと「きっと大丈夫だから」と重ねて告げた。
ジャルアさんは普段は公務で非常に忙しい人なので、あまり外を出歩いたりしない。クルベスさんのところに顔を出すことはあるけれど、それもしょっちゅうではない。
普段が忙しくてなかなか自由な時間を取れない分、遊べる時は思いっきりはっちゃけるタイプ。