04.雪花-3

 バケツから跳ねた水飛沫。それはつららのように凍り、鋭利な先端をクルベスに向けた。
 一切のブレも無く飛んだソレをクルベスは咄嗟の判断で避けて事なきを得る。

 いや、少し頬を掠ったらしい。茫然と見つめる視界の中でクルベスの頬にうっすらと一本線が現れ、そこから一筋の紅が流れ落ちていく。

 一瞬顔を歪めて痛みにうめくクルベスに、レイジは自身がしでかしたことをありありと思い知らされた。

「ごめ、なさ……ごめんなさいごめんなさい!そんなつもりじゃないのに、なんで、こんな……う、ぁああぁあああ!!」
「レイジ!待てレイジ!!」
 大切な人を傷つけてしまったことから、自分を呼ぶ声から、レイジはただひたすら逃げた。

 ◆ ◆ ◆

 どれぐらい走ったのか分からない。『とにかく一人にならないと』という気持ちだけで彷徨っていくうちに、レイジは窓辺に据えられたベンチを見つけた。

 どこかの部屋の窓辺、しかも外という屋根も何もない、天気が崩れてしまえば野晒しになってしまう奇妙な場所に設置されたベンチ。
 なぜこんな場所にあるのか見当もつかないが、そのおかげでここには自分以外誰もいない。

 レイジは両目から氷の粒をこぼしながらベンチに座り、膝を抱えてうずくまった。
 惨めなすすり泣く声だけが空虚に響く。

 

 やってしまった。いつかこうなるんじゃないかと危惧していた最悪の事態を引き起こした。
 危うくクルベスに大怪我を負わせるところだったんだ。いや、あれはクルベスが避けられていなかったら大怪我ではすまないものだ。
 ひとときの感情の昂りで自分はあいつを殺しかけたんだ。

 自分が泣く資格なんて無いのにとめどなく溢れ出る涙は氷の粒となって服を濡らしていく。
 ただ泣くことしかできないでいると唐突にベンチが揺れる。顔を上げて隣を見ると、そこには見知らぬ青年が座っていた。

 

「ひっぐ……何か用ですか」
 心配そうにこちらの様子を窺っていた青年に問いかける。
「えっと、この近くに用があって……そしたらきみが泣いてるのを見えたから心配で……」
「自分に構わないでください。さっさと用を済ませに行ったらどうですか」
 わざと辛辣な態度を取ってみせる。礼儀のなっていない子どもと思われたほうが、この青年も立ち去りやすいはずだ。
 それなのに青年はその場に居座り続ける。泣いているから放っておけないと思われているのだから、泣きやんでしまえばいいのに涙は止まってくれない。

「何なんですか……子どもが、ぅっ、泣いてるの見ても……何も面白くないですよ……!」
 支離滅裂な言動をしている自覚はある。でもそんなことどうだっていい。一刻も早くここから離れてほしい。これ以上誰も傷つけたくないんだ。
 するとその青年はコクリと頷いた。

「うん。きみの言う通り、小さな子が泣いているところを見ても何も面白くないよ。僕にはきみの心が何かに苦しめられて、傷ついているように見えたんだ」
 この青年はいったい何が言いたいのだろう。
「子どもが泣いているのに放っておくことなんてできないよ。きみがよければでいいんだけど……何があったのか聞いてもいい?」

 普段の自分なら、初対面のしかも名前も知らない男に絶対話さない。でもこの時はなぜか打ち明けたんだ。
 青年の優しさを信じてみよう、とでも思ったのか。それともこの青年がまとう浮世離れした雰囲気やその姿に心を惹かれたからだろうか。

 

 ある日突然おかしな力が出たこと。それを家族に話してそれが『魔法』だと分かったこと。この力の対処法を尋ねるために今日ここを訪れたこと。
 息を詰まらせながらつたない言葉で説明していく。青年は『魔法』という文言もすんなりと受け入れた。もしかすると青年も魔法の存在は知っているのかもしれない。

「この、ひっぐ、力のせいで……お父さんもお母さんもルイも、あいつにも迷惑かけて……っ!それだけじゃない、さっきは大怪我させそうになった!もう少しで……殺しちゃうところだった!」
 先ほどの出来事が脳裏によみがえり、少しは大人しくなっていた涙が再び勢いを取り戻す。

 本当は嫌いなんかじゃないのに。ただ素直になれなくて意地を張って――それを分かってくれているあいつの優しさに甘えていた。
 物心ついた頃から見守ってくれていたあいつを、些細な緊張や不安も解きほぐしてくれるあいつを、自分は殺めてしまうところだったんだ。

 

「嫌い……嫌い!こんな力、大っ嫌い!!もう嫌だ……消えたいよ……っ」
 かかえた膝に顔を埋めて心の底にわだかまっていた思いをもらす。
 死んでしまいたいわけじゃない。でももうこの世にいたくないんだ。誰の迷惑にもならないように霧のように消えてしまいたい。

「……つらかったね。苦しかったね。自分が望んだわけでもない力を持たされて、みんなを危ない目に遭わせるんじゃないかって、ずっと怖かったんだね。大丈夫、僕も分かるよ」
「そんな簡単に『分かる』って言わないでよ!あんたに何が分かるっていうんだっ!!」

「――分かるよ。だって『同じ』だから」
 そう口にすると青年は目を伏せて手を差し出す。
 次の瞬間、その手のひらには氷で形造られた華が現れた。

 

「僕もね、この力で家族を傷つけた。そんなつもりは無かったのに……大怪我させた」
 氷の華は青年の心情を表すかのように、無数の棘に覆われ、やがて水になって消えた。
「弱虫だった僕は逃げて、ずーっと顔を合わせられなくて……もう一回会おうって思えるようになるまですっごく時間がかかったんだ」
 それもかけがえのない友人に背中を押されてようやく決心したぐらい、と青年は苦笑する。

「でもあの時のことは後悔しているよ。なんでもうちょっと早く話をしようとしなかったのかって。そしたらもっとたくさん一緒に過ごせたのに」
 彼の言動は遠い過去の出来事を振り返っているかのような果てしない時の流れを感じさせられた。
「きみは僕みたいになっちゃダメだ。ちゃんと話し合えばきっと、この出来事も小さい頃の苦い思い出ぐらいになる」

 

「で、も……それでも、この力があったらダメなんだ。……たぶん、すごく良くない状態になってる」
 レイジは青年の真摯な眼差しから目を逸らしながら口ごもる。自分には詳しく話せないほど深刻な状態になっているのは明白だ。それぐらいクルベスとジャルアの反応は異様だった。
 すると青年は「ふむ」と何か考え込むような仕草を見せる。

「確かに……さっきも勝手に涙が凍ってたもんね……。できればで良いんだけど、いま魔法を使ってみることはできる?」
「……やろうと思えば」
 先ほどの尋常じゃない疲労感を思い出し、気を張り詰めた自分に青年はあたふたとした。

「無理はしないで。無理に使おうとすればその分、反動はひどくなるものだから」
「いえ、ちょっと気分が悪くなるんで、もしかしたら迷惑掛けちゃうかもしれないってだけです」
 魔法を使った瞬間、気を失ってしまう可能性がある。そうなった場合、この青年に多大な迷惑を掛けてしまうことになる。
 含みを持たせた物言いに青年はこちらを心配そうに見るが、構わず手をぐっぱっと握って気合いを入れた。引く気のない自分に青年は根負けしたように「それなら」と呟く。

 

「今から言うことをなるべく意識して魔法を使って。少しでも体への負荷は少ないほうがいい」
 特にきみみたいな発現したばかりの子どもはね、と青年は手を添える。
「まず自分の鼓動を意識して。そこからゆっくり、自分の血とともに力――魔力が手に流れていく感覚を想像するんだ」
 ゆっくり……ゆっくり……と促す青年の声と同じ早さで何かが胸から上腕、肘へと下っていくような気がした。

「うん、大丈夫。ちゃんと出来ているよ。それじゃあこの氷を使ってきみの力を見ようか」
 青年は再びその手から氷を作り出し、自分の手に乗せる。そういえばこの青年はどうやって氷を作り出しているのだろう。その手は水に触れていないのにどこからともなく氷を出現させている。

 

「ちょっと気が逸れているね。何か気になることがあるのかな」
 自分の些細な意識の揺らぎを察知した青年に思わず目を丸くした。
「あ、えっと……すみません」
「謝らなくていいよ。何が気になったのか教えて」
 心を落ち着けた状態で始めたほうがいいから、と青年は微笑みを見せる。

「その……それは何をどうやって凍らせているのかなって……」
「良い質問。それによく気がつく子だ。これはね、空気に含まれる水分を凍らせているんだ」
 その発言に心臓が跳ねる。

「え!?じゃ、じゃあもしかしたら――」
「自分も不用意に空気を凍らせて誰かを傷つけちゃうかもって?その心配は無いよ。これは仕組みが複雑で、目に見えるほどの氷を作るのは意識してやらないとできないから」
 そう話すと青年は自分の手に乗せられた氷を優しく撫でた。

「きみは魔法に不慣れだからこうして媒体……発動の元となる物があったほうがいい。触れられる物があるとイメージが安定しやすいし。それじゃあお話もここまでにして、続きをしようか」

 


 魔法について勉強しながらもやっぱりいろいろ不安になったりしていたレイジ。それでも「きっと大丈夫。お父さんもあいつも『大丈夫』って言ってくれたから不安そうな顔を見せちゃいけない」と自分に言い聞かせて。でも今回のことで限界がきてしまったようです。