長い長い一日が終わり、誰かに呼び止められる前に足早に教室から出るルイ。背後や周囲に警戒しながらエスタが待つ正門前へと急ぐ。
下校中の生徒が歩いている正門前、さほど苦労する事なく探し人を見つけることが出来た。その探し人――エスタは硬い表情で正門を通り過ぎる生徒たちに視線を巡らせており、遠くから見ても指先まで緊張していることが容易に窺える。
尋常じゃない緊張感にルイは内心『声かけづらいな……』と思っていたが、その気持ちが通じたのかエスタはふとこちらに向かってくるルイの存在に気付く。
その瞬間、エスタのまとっていた緊張が解け、そのまま激突する勢いでルイに駆け寄った。
「弟くんおかえりぃいい……!大丈夫だった!?あんまり関わりのない人から嫌なことされたり変なこと言われたり人気の無い場所に連れ込まれたりしなかった!?」
「ありませんでした。学校のことはあとで話すんでとにかく今は早く帰りましょう」
昼休みの電話から半日も経っていないのだが、エスタはまるで生き別れの兄弟と再会したかのような言動である。大袈裟だ。
ルイの言葉にエスタは「そうだね。早く帰ろうか」と頷き、歩き出す。
心なしかルイの歩調がいつもよりも速い。その様子にエスタは『もしやストーカーに付きまとわれているのでは』と考えたが、それならばルイのほうから何かしら示唆するはずなのでその線は薄いだろう。
すると先を急いでいたルイが歩を緩めないまま呟く。
「ティジの見舞いに行きたいって言ってたんです、アレが。下手したら跡をつけられてる可能性もあるんでさっさと帰ったほうが良い」
そう言ったルイは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
ルイが『アレ』呼ばわりする人物など一人しかいない。シン・パドラか。相変わらずルイの中でのシンの好感度は最低値を保っているらしい。
「あいつ、授業中だろうが関係なくウザ絡みしてくるし、教室を移動する時もずーっとついてくるし……人をからかって何が楽しいんだか」
ルイはぶつくさと文句を言うと、深いため息を吐いた。
ルイとしてはシンに四六時中付きまとわれるのは大変不快だろう。だがそのおかげで学校内ではルイ一人で行動してしまう事態は起きていないようだ。
ルイの気持ちを優先すれば、ここは「シン君の言動が嫌だってはっきり言って、なるべく距離を取ったほうが良いだろうね」とアドバイスするべきだろう。
しかし学校内でのルイの身の安全を考えると、出来ればシンにはルイが一人きりにならないようそばに居てあげてほしい。あちら立てればこちらが立たぬ、とはこの事か。
夕焼け色に染まる帰り道、しかめっ面のルイの隣でエスタは『どうしよう……どうするのが正解なのかな……』と頭を悩ませるのであった。
◆ ◆ ◆
そこはどこかのベンチ。
庭園の一角とも、学園の休憩所とも違うその場所にぼくは座っていて。
別の時にはどこか屋内のこぢんまりした休憩所に座っていたり。
ここはどこだっただろうか。……そうだ、図書館の休憩所だ。そこでは図書館の本を読むことが出来て、お城の外だけどとても落ち着ける場所だった。
でもその頃のぼくはそのベンチで目的も無く座っていたわけじゃないかった。
図書館の休憩所も、本を読みに立ち寄っていたわけじゃなかった。
そのどちらの場所でもぼくの隣りには『誰か』がいた。
どこかのベンチでも、図書館の休憩所でも。
『誰か』がぼくを待ってくれていた。
その人の姿を見つけたぼくは一目散に駆け出して。隣に座ったぼくにその人は目を細めて笑う。
その人はぼくにとって、かけがえのない人だった。
大好きなその人と一緒に過ごす時間がこれ以上にないほど幸せだった。
誰にも知られちゃいけない、二人きりの時間。
とても大切で、何物にも代え難くて。
◆ ◆ ◆
視界が暗い。重いまぶたを開け、ぼうっと天井を見つめる。ぼんやりとした意識が段々と鮮明になっていき、ティジはようやく自分は今の今まで眠っていたのだと理解した。
何か夢を見ていた気がする。夢の内容は覚えていないが、体はまるで土砂降りの雨に打たれたようにおびただしい量の汗をかいていた。
汗を吸ったシャツがじっとりと肌に張り付いており、心臓はドクドクと早鐘を打っている。体がだるい。起き上がるのも億劫だ。
部屋の中は暗く、窓から射し込む月明かりが今は夜だと示している。いつの間に眠りについていたのだろう。
昼頃に一食にも満たないような少量の食事を摂った後、また熱が上がってきたので横になった記憶はある。だとするとそこからずっと眠りっぱなしだったということか。
額に何か重量を感じる。鉛のように重い手を上げて触れてみると濡れたタオルが乗せられていることが分かった。タオルがまだ冷たいことから、これが乗せられてからさほど時間は経っていないのだと窺える。
静まり返った部屋の中、体を横たえたまま視線を周囲に巡らせるとベッドの脇にルイがいることに気付く。椅子に座っているルイはすぅすぅと寝息を立てて寝ていた。
このままここで眠ってしまったら体を痛めるし自分の風邪が感染ってしまう可能性だってある。早く起こしたほうが良い。
そう考えたが風邪による不調のせいで体が思うように動かせず、手は頼りなく宙を掻くだけ。
内心困り果てていたものの、その一方でルイの寝顔を見つめているとあんなに乱れていた脈が次第に緩やかに落ち着いていくのを感じた。
ふいにカクリとルイの頭が揺れる。その反動で眠りから覚めたようで、窓の外に広がる夜空より明るい蒼の瞳が瞬く。そんな彼にティジは「おはよう」と言おうとする。だがティジ自身も先ほど目を覚ましたばかりだからか「……よう」と掠れた声しか出せなかった。
「ティジ、気分はどう……いや、普通に考えたらまだキツいか」
そう聞きながらルイは額からずれ落ちてしまっていたタオルを元の位置に戻す。もしかするとこのタオルはルイが乗せてくれたのかもしれない。
それにしても何故こんなところで寝てしまっていたのか。ティジがそう考えていたのを察したのかルイが自ら経緯を話し始めた。
どうやらルイは帰宅時に一度エスタと共に見舞いに来てくれたらしい。だが当然ながら自分は寝ていたので、それを起こすのも良くないと考えて「また明日の朝にでも伺おう」と一旦退散した。
だがその後も気に掛かって、夕食後にルイ一人でこっそり様子を見にきたのだと言う。まぁ案の定とも言うべきか自分は眠ったままだったのだが。
それを何もせずに立ち去るのも気が引けたため、一向に熱が下がらない自分の頭に濡らしたタオルを掛けたり、「汗で湿ったシャツからいつでも着替えられるように」と替えのシャツを手の届く場所に準備しておいたりなどしていたのだとか。
それらがひと段落して椅子に座って休んでいるうちに寝てしまったようだ。
ルイがしてくれた献身的な行動の数々に、ティジはようやく動くようになってきた体を起こしながら「ありがとう」と感謝を伝える。それに対してルイは起きあがろうとするティジの背を支えながら「これぐらい何でも無い」と微笑んだ。
ティジはそんな彼の気遣いに救われながらも胸をジクリと痛ませた。
「ルイ……食堂のこと、ほんとにごめん……俺のせいで全然居られなかったよね……」
昨日の食堂にて、自分が体調を崩したがためにルイには早々に食事を切り上げさせてしまった上、共に早退させることとなってしまった。
エスタの食堂の話を熱心に聞いて、馴染みのない料理に目を爛々と輝かせていたのを隣で見ている。それほどまでに楽しみにしていたというのに、自分のせいでその機会を奪ってしまった。
熱で潤んでいる視界がさらにぼやける。
ダメだ。体の具合が悪いと心のほうまで調子が悪くなってしまうらしい。普段だったらこんなことで弱ったりしないのに。なんて情けない。これではますますルイを困らせてしまうだけじゃないか。
目にいっぱいいっぱいまで溜まった雫がこぼれ落ちそうになる。
早い話、そんな物はさっさと手で拭ってしまえばいいのだが、そうすると泣いているところをあからさまに見せつけているように思わせて要らぬ気を遣わせてしまうかもしれない。それでは本末転倒だ。
これ以上何か話そうとしたらそれと一緒に余計な物まで溢れ出してしまいそうになる。それを堪えようと強く毛布を握る。
すると自身の手の上に、月明かりを受けて白く透き通ったルイの手がソッと重ねられた。
「ティジが気にする事なんて何も無い。食堂なんていつでも行ける。風邪が治ったらまた行けばいい。今度はもっとゆっくり出来るよう二人で行ってさ、フレンチトーストも頼んで……あぁ、あとあの日はフルーツサンドも売り切れていたからそれもあったら頼んでみるのも良いかもしれないな」
ルイは自分を励まそうとフレンチトーストやフルーツサンドのことを挙げたのだろう。それに思わず吹き出した。
「そうだね。ルイの言う通りだ。食堂はあれ一回きりじゃない。いつでも行ける。……うん。それなら風邪なんて早く治さなきゃ、だね」
顔を上げて笑顔を見せるティジ。笑った時の反動でティジの目元から伝い落ちた雫を、ルイは汗と一緒に優しく拭い取った。
それからはルイの今日の出来事を聞き、エスタの心配ぶりやルイの気苦労に苦笑したり、いつも通りのクルベスの様子に笑ったりなどして。
そうしているうちに段々とまぶたが重くなる。どちらとも無しに「それじゃあまた明日。おやすみ」と交わして眠りについた。
木の芽時:三月から四月までの気候が暖かくなり草木が芽吹き始める時期。気温の変化が大きく身体や精神的にバランスを崩しやすい時期でもある。