09.ライラックの追想-5

 本日の聴取も終わり、いつもと変わらず拘置所に戻されたニィス。しんと静まり返った空間の中、体を横たえて天井を見上げた。

 ブレナを何故あのような状態にしたのか、その動機について聞かれた聴取から少しばかり日が経った。だがここ最近は自分が関わった事件について形式ばった質問をされ、それに応えるだけの日々が続いている。ブレナの件についてはひとまず聞きたいことは聞き終えた、ということだろう。

 

 ――それで……どんな動機でブレナをああいうふうに変えたのかが聞きたいんだっけ?

 

 実を言うとあの日の聴取で話した内容には脚色を加えている。もう少し陳腐な表現をするならば『嘘をついた』といったところか。

 情状酌量なんて最初から考えちゃいない。虚偽の話をすることで自分の立場が危うくなるなど、そんなことは百も承知だ。その上で嘘を述べたのだ。

 だがこの話だけは機関の人間が相手でも話したくはなかった。
 たとえ、親やブレナが相手だったとしても。

 ◆ ◆ ◆

 大学に入学して僕がブレナとの連絡を断ってから幾ばくかの月日が経過した頃。

 あの頃の僕は大学生らしい健全な学生生活と機関で研究を手伝う日々、二足のわらじを履いた生活を送っていた。
 とはいえ機関のほうはと言うと『手伝い』の範疇はとっくに超えていて、僕自身も機関の研究に携わるようになっていた。ただの一学生にそんなことを許すのは驚嘆に値するけど、若さゆえの新しい思考や切り口などを期待していたのかもしれない。

 学業を疎かにするのは学生としてあるまじき行為だ。かといって研究のほうにも全身全霊で向き合わないといけない。

 だってこの研究は興味深いから。
 これに関わっている間は父と母の近くにいられるから。
 父と母が初めて僕に関心を向けてくれたから。

 そう心の中で繰り返しながら学業と研究に明け暮れていた。

 

 けれど僕は一度集中すると自分の体調をないがしろにする性質だったようで。ある日、無理が祟ったのかそれまでの人生において経験したことが無いほど酷く体調を崩した。

 一人きりの家の中、ベッドの中で丸まって回復を待つ。普段はどうってことないのだが体が弱ると同時に気持ちのほうまで沈んでしまうらしい。
 陰鬱な思考パターンからどうにか持ち直そうと、体調が戻った後にやらないといけないことを熱でゆだった頭でひたすら考えていた。そしたら誰かが玄関の扉を開けたような音が聞こえたんだ。

 こんなボロボロの状態でそんな小さな音を聞き取れるものかと思うけれどその時は何となく気のせいじゃないと思えて。足元をふらつかせながら玄関に向かった。もしかしたら父か母が僕に共有しておきたいことがあって戻ってきた可能性もあったし。

 

 絶不調の僕の目が捉えたのは久方ぶりに見るあいつ――ブレナ・キートンの姿だった。「何でお前がいる」とか「何しに来た」とか言う前に気を失っちゃったんだけどね。

 そういえば以前、お前に言われたっけ。『ずっと体を動かさないのも良くない』って。

 もうちょっと真面目に聞いておけばよかった。そしたらあの時あの場で倒れずに追い返す体力ぐらいは残っていたのかもしれないのに。

 ……まぁ今さら後悔してもどうしようもないんだけど。

 

 

 次に意識を取り戻した時はベッドの上。ご丁寧にも僕の着ていた服は、汗で湿って不快に肌に張り付いていた物から清潔感のある部屋着へと着替えさせられていた。
 家には家政婦なんて雇っていないからここまでお節介な真似をする奴はあいつしかいない。

「……あいかわらずだね。その世話焼き癖は」
 情けないほど弱々しい声でぼやく。するとブレナは僕が目を覚ましたことにホッとした様子で口を開いた。
「教授から聞いたんだよ。無遅刻無欠席、成績優秀なきみが突然連絡も無しに三日も休んでるって。学生課の職員が連絡を入れてみたけど応答無し。それで心配した教授が私に『様子を見に行ってくれないか』って頼まれたんだ」

 ブレナとは大学は同じだった。だが専攻した学部は全く異なっていたので講義が被ることもなく、大学内での接点は全く無かった。
 が、僕とブレナが高等部まで付き合いがあったことを知っていた同級生が教授にブレナのことを教えたのか。

 余計なことをしやがって。こいつなら僕の家の鍵も持っているから例え僕が居留守を使っても問答無用で家に入れる。僕の様子を見に行かせるならこれ以上にない適役だ。
 ていうか大学から連絡なんてあったのか。ここ数日はずっと寝込んでいたのだが、もしや聞き逃していたのかもしれない。

 

「その『私』って言い方……似合ってない。いつも通り『俺』って言えよ。一人称を変えたぐらいで誠実な人間になれるとでも思ってんの?」
 ブレナが一人称を『私』と言うようになったのは教師の道を志してからだ。形から入ろうとする安直な考えが気に入らないし、一人称が『俺』のブレナに馴染みがある僕としては違和感しかないので即刻やめていただきたい。その程度で聖人君子になれるわけでもあるまいし。

「ふとした時に『俺』って出てしまわないように今のうちから言い慣れておきたいんだ。きみと一緒にいる時が一番気がゆるむから良い練習にもなるし」
 自分の意見を聞き入れられずカチンときた僕は売り言葉に買い言葉で応戦する。痛みを訴える頭を手で押さえながら身を起こした。

 

「へぇ?お前の分際で僕を練習台にするわけか。生意気。第一、許可もなく人の家に入るのはどうかと思うけど。それに飽き足らず、意識が無いのを良いことに勝手に服を着替えさせるとか……僕じゃなかったら速攻で通報されてるよ?」
「それに関しては不可抗力だろ。チャイムもちゃんと鳴らしたのに出ないし、留守かと思ったら家の鍵は開いてる。何かあったんじゃないかって心配したんだぞ。そしたらきみがふらっふらで出て来てそのまま倒れたんだから。いいから病人は黙って寝なさい」
 そう言って珍しく大変ご立腹なブレナは僕をベッドに押し戻す。抗議の意味も込めて「ぐぇっ」とカエルが潰れたような声を漏らすも、ブレナは慣れた様子で「台所使うよ」と言って部屋から出ていってしまった。
 ……チャイムも鳴らしてたのか。全く気付かなかったな。

 


 ブレナ先生がニィスの家の鍵を持っていたのは、過去にニィスが家の鍵を失くしかけたことがあったから。その時は結局「ノートの中に挟まってた。そういえば家を出る時にそのままカバンの中にポイって入れたような気がする」で事なきを得ましたが。(なお本人に反省の色は無し)

 ニィスのご両親は帰りがかなり遅くなることもざらにあるので、もし本当に鍵を失くした時はそれまで玄関前で待ちぼうけになる可能性が高い。ニィスは『親が帰ってくるまでカフェで時間を潰そう』っていう考えはしないタイプなので絶対そうなる。
 というわけでブレナ先生のほうから「俺にも予備の鍵くれない?絶対に悪用とかしないから」と言って予備の鍵をもらった、という次第です。