ブレナが作った病人食、もとい薄味のおかゆを口に運ぶ。……まずまずの味だ。まぁ今の僕の体調に合わせた料理としては及第点といったところか。
「あまり食欲が無かったら無理して食べなくてもいいから。自分が食べられそうな量だけ食べて」
そう言ったブレナはその後も「のど詰まらせないようにゆっくり食べろよ」とか「薬はいつごろ飲んだ?」など休む様子もなく世話を焼く。うっとうしいほどの甲斐甲斐しさに僕は『こいつのお節介癖は筋金入りだな』と思いながら、久方ぶりの温かみのある食事を小動物のようにチビチビと口に運んでいった。
こういう時『どうして突然連絡を断ったんだ』とか『ご両親はどこに行ってるんだ』とかそういう野暮ったいことを聞かれないのは非常に助かる。
まぁこいつの目線の運びとか会話の途中で不自然に挟まる妙な間から『何故ご両親はニィスがこんなに酷い状態になるまで放っておけるのだろう』と怪訝に思っているのは容易に窺えるが。
だがこいつも口にはしないので僕も気づいていないふりをしておく。父と母が家に帰って来ないなんてよくあることだし。
そういう上っ面だけの心配など何の助けにもならない。その場限りの同情など面倒なだけだ。
「これは俺……私が片付けておくから。きみは大人しく寝てなよ」
ブレナは空になった皿を片付けようとした僕の手から皿をひったくり「片付けたらすぐ戻るから」とだけ言い残して颯爽と部屋から出ていく。別に『一人にしないで』とかそういう戯言は一言も言ってないのに。
まぁ良いや。かなり腑に落ちないがそのお言葉にしたがって大人しく寝といてやるとしよう。
ていうかさっき『俺』って言いかけて慌てて『私』に言い直したな。……不愉快だ。やっぱりあいつには『俺』のほうがしっくりくると思う。
不調による寝苦しさから中途半端なところで目を覚ます。なんとかもう一回眠りにつけないかとしばし奮闘するも、そうしているうちに目が冴えてしまった。時計を確認したが僕は一時間ほど寝ていたらしい。
「すぐ戻る」とか言っていたくせにブレナの姿は無い。もう帰ったのかと思ったが部屋の隅にあいつのカバンが置きっぱなしになっていた。そういえば最近は家の掃除もおろそかになっていた気がする。……あいつのことだから「ついでに」ってノリで掃除もやってそうだな。
仕方ない。外も暗くなってきたし「もう帰れ」って言いに行くか。
念のため台所を確認したが洗い物は終わっており、ちゃんと皿も片付けられていた。「病人を歩き回らせやがって」と心の中でぼやきながらブレナを探す。居間のほうの扉が半開きになっていることに気がついた。
「電気ぐらいつけろよ。目ぇ悪くなるぞ」
部屋の中心に佇んでいたブレナの後ろ姿に呼びかける。しかしブレナはこちらの呼びかけに反応することなく手に持った何かに気を取られていた。
「おい、聞いてんのか」
自分の呼びかけを無視されたことに眉根を寄せながら部屋の明かりをつける。
ブレナの足元に何かが落ちている。そちらに目を向けるとそれは僕のカバンだと気づいた。通学用に使っている物とは違う、もう一つのほう。
「……ニィス」
手にしている物を凝視していたブレナがゆっくりとこちらを振り向く。その声は心なしか震えているように聞こえた。
「きみは……きみのご両親は何の研究をしてるの……?」
は、と息が開いた口から抜ける。次いでその問いかけ、ひいてはブレナが手にしている物が何なのか理解した。
――あいつが持っていたのは、機関で僕が携わっている研究についてまとめられた資料だった。
その資料はカバンの中に収められていたはず。ブレナの足元に視線を遣るとカバンは横倒しになっており、その口から中身を覗かせていた。
その瞬間、数日前に意識朦朧とする中『少し休んでから整理するか』と適当な場所に放り出したことを思い出す。先ほどまで自分を苦しめていた熱が急速に引いていったような気がした。
「おかしいと思ってたんだ!突然連絡もとれなくなって、大学で会おうにもいつもすれ違って結局会えないまま……まるで、俺のことを避けてるみたいだって……」
ブレナの手に力がこもり、手にしている書類がクシャリと形を歪める。
「でも、でも……!大学が忙しいのかもしれないと思って、もし大学を楽しんでるならそれを邪魔しちゃいけない、そう思ってた!思って……思ってたのに……何だよ……何なんだよコレ……!」
ブレナはそう声を枯らして動揺をあらわにする。
「忘れろ」
ようやっと絞り出した自分の声はひどく乾いていた。僕の言葉にブレナが目を見開く。
「見た物は忘れろ。誰にも話すな」
「なに、言ってんだよ……そんなのまるで――」
「あぁそうだよ。事実さ。そこに書いてある内容は全て事実。でもお前には関係無いことだ。だから忘れろ。それを返せ」
淡々と告げてブレナに資料をこちらに返すよう促す。今さらあいつの手から資料を奪っても何の意味もないことは分かりきってる。あの物言いだと研究の内容も理解してしまっているのだろう。
だがブレナはこちらの説得に応じる事なく、青ざめた顔で僕を見た。
「これは……きみが本当にやりたくてやってるのか……?こんなひどい事――」
「崇高な研究だ!!」
たまらず声を張り上げた。研究を、僕が行なっていることを否定するかのような発言に。
「僕がやりたくてやってる!僕が手伝うことで父と母も喜んでくれてる!これは素晴らしい研究なんだよ!何も知らないお前にとやかく言われる筋合いは無い!!」
「――本気でそう思ってるのか?」
ブレナの咎めるような追求に息を詰まらせた。そんな僕の反応にブレナは言葉を重ねる。
「大勢の人を傷つけて……ましてやその人の命を奪う結果になるまで続けられる研究が本当に素晴らしいことだと?」
そうだ、という言葉は喉でつかえて出てこない。声が出ないのならば代わりに首を縦に振って頷けばいいのに、まるで体が石になったかのように動かすことが出来なかった。
言葉も返せず、視線を落として沈黙する僕にブレナは唇を動かした。
「俺には……きみが苦しんでいるように見えるよ」
その発言に『何をバカなことを』と目を向けた僕にブレナは言葉を続ける。
「きみはそんな事をする人間じゃない。少なくとも俺はそう思ってるよ。きみが倒れたのも無理してたからじゃないか?」
「そんなわけ……そんなわけ無い!少し忙しかっただけで、たまたま自己管理できてなかっただけだ!何を知ったように……僕の何を知ってるっていうんだ!!」
まるで子どもの癇癪のように稚拙な言葉で否定することしか出来ない。
少なくともこいつは僕が今まで生きてきた中で一番言葉を交わして行動も共にしてきた人物だ。僕が何を好み、どのような事柄を忌避するかは誰よりも分かっているだろう。
「なぁ、きみがご両親のことを尊敬しているのは知ってるよ。でも、だからといってニィス……きみまでこんな事をやる必要は無い。きみはもっと自由に生きていいんだよ」
「じ、ゆう……?」
今まで誰からも言われたことの無い言葉を復唱する。どうしてお前が悲しそうな顔をしてるんだ。それが理解できずにいた僕にブレナは一呼吸おいて口を開いた。
「これはきみが自分を傷つけてまで行なう事じゃない。こんな事……間違ってるよ」
告げられた言葉に息が止まる。
次の瞬間。思考が、目の前が真っ赤に染まって。
「間違ってない」と叫ぶ声がどこか遠くに聞こえた。
手近にあった物は何だっただろうか。
あぁ、そういえば居間に入ってすぐのところに花瓶が置いてあった気がする。学校の課題か行事で作った一輪挿しの花瓶。花が生けられることも無く、ただそこに置いてあるだけの文字通り無用の長物となっていた花瓶が。
僕はそれを掴んで『間違ってる』という言葉を打ち砕くように振り下ろした。
だってそうだろう?父と母は『僕』よりもそれを優先してきた。もしブレナの言うことを認めれば、父と母にとっての『僕』の存在価値はその「間違ってる」と言われたもの以下になる。
間違ってなんかない。
機関が、父と母が行なってきたことは崇高で素晴らしいものだ。そうであるべきなんだ。
そうじゃないと――そんなもののために僕はずっと独りにさせられてきたのか?
現実を知ることはさほど難しくない。頭では理解できる。
でもそれを自分の心が受け止められるかは別問題なんだよ。
ブレナ先生の親御さんはブレナ先生がニィスに付き合ってあげていることに実は良い顔をしていない。
ニィスのご両親はニィスのことをほとんど放りっぱなし。かくいうニィス自身も他者と円滑な交流をしようともしない、むしろブレナ先生に対して捻くれた言動ばかりしてる子なので。
でもブレナ先生自身が「放っておけない感じがしたから」と積極的に関わりに行ってるので『それを無理やり引き離すのは良くないよなぁ……』と渋々ながら容認している状態。でもとても心配している。