10.とある事件の記録-3

 あのクマのぬいぐるみを渡した日から毎日、少しの間だけでもエディはルイの元へと足しげく通った。クルベスの友人ということと、クマのぬいぐるみを持ってきてくれた人ということもあってルイは比較的順調に警戒心を解いていった。
 それまでは物言わぬ人形のようだったルイもクマのぬいぐるみが自分の元に戻ってからはたどたどしくではあるが喋るようになった。食事も、少しずつ口にするようにもなった。時折家族のことを思い、悲しそうな目でクマのぬいぐるみを見ることはあったがそれでも以前の状態と比べると格段に良い傾向に進んでいた。

「ルイ、少し聞い、えーっと頼みたいことがあるんだけど」
 ベッドに座ってクマの手を握っているルイの前に膝をつき、慎重に言葉を選んで声をかける。『聞いてほしい』というとここで目を覚ました日のことを思い出させてしまう可能性があったからだ。
「……うん、ぼくにできることなら」
 クルベスを一瞥したのち、再び目を伏せて頷いた。前はこんな言い方はせず何でもやってみるという子だったが、事件の出来事から自分の力に限界があると悟ってしまったのだろう。そうさせてしまったことにクルベスは歯を噛んだ。

「エディ、伯父さんのお友達にあの日のことをお話してほしいんだ……いい、かな?」
 できるだけ柔らかい声で問いかける。
「あの日……」
 事件があった日のことだとすぐに分かった様子のルイは青ざめた顔を俯かせる。その様子に慌てて二の句を継いだ。
「ごめんな、話したくないなら話さなくていいよ。大丈夫、あの人には伯父さんから話しておくから」
 ルイをこれ以上苦しませることになるならば話さなくてもいいと肩に手を置くとルイはぐっと唇を噛んだのち――
「お話する」
「……え?」
 その短い返事にルイの顔を今一度見つめた。

「ぼく、あの日のことお話するよ。だってそのほうが良いんだよね」
 ルイはクルベスの目を真っ直ぐと捉えていた。
「でも、ルイきつくないのか?だって……」
 話すということは、あの日あったことをはっきりと思い出しながら語るということだ。それが分かっていて言っているのだろうか。それにこくりと頷いてクルベスを見据える。
「あの人、警備隊の人……なんだよね。それならぼくが見たことを聞いたほうが、色んなこと分かるかもしれないんでしょ?」
 少し前にエディは自身の職業を明かしていた。そのほうがルイも安心するだろうと考えたからだ。「だから」と膝上に置かれた手をルイはぎゅっと握る。
「まだ、すごく怖いけど……ぼくがお話して何か分かるなら、頑張ってお話……する」
 その声はわずかに震えていたが、唇をきゅっと引き結んだルイの目は幼いながらも決意に満ちていた。

 

 ――数日後。
「頼み事を聞いてくれてありがとう。改めまして、エディ・ジャベロンです。今日はよろしくね」
 エディはベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けて挨拶する。この場にはルイとエディ、それに加えてクルベスも同室している。ルイの様子が急変したときに備えてのことだ。
 エディは本部から支給された記録用の録音機をテーブルに置き、それとは別に革手帳を取り出す。日頃たまの休日に行う城での定期的な様子見兼、質疑応答に使用する物とは別の手帳だ。仕事柄ゆえそういうところはしっかりしている。
「このお話は念のため記録させてもらってるけど、もし苦しいな、お話するのが難しいなって思ったらすぐに言ってね。君が無理することはないから」
「ありがとう……ございます」
 ルイは自身の左隣に座っているクルベスの手を握る。
「……っ、ぼく」
「話せるタイミングで始めていいよ。とりあえず深呼吸してみよっか」
 エディは呼吸が荒くなっていたルイに優しく語りかける。クルベスはルイが少しでも落ち着けるようにとその背中をさすった。やがてある程度呼吸が安定すると、ルイはとつとつと語り始めた。

「……ぼく、あの日はお家でみんなといて、トランプで遊んでた。お兄ちゃんとお父さんは楽しそうにお話してて、お母さんもぼくが作ったトランプ、褒めてくれて……」
 クルベスの手をぎゅっと握る。その手はカタカタと震えていた。その手の甲を親指で撫でながら、あの日リビングのテーブルの上にはトランプが置かれていたがあれはルイが遊んでいた跡だったのか、とクルベスは思案した。
「そしたら、チャイムが鳴って……ぼく、伯父さんだと思って、っ、一人で、勝手に行ってドア、ぼくが、ぼくが開けたから……っ!」
「ルイ、ルイ。大丈夫。ここは病院だよ。伯父さんがここにいる。ルイは一人じゃないよ」
 口元を歪め、悲痛な声であえぐ。浅く呼吸を繰り返し、涙を流すその小さな背中を再びさする。

「っ、ぼくのせいだ、ごめんなさい……ぼくが、ぼくが勝手に開けたから……!」
「ルイは何も悪くない。ルイがここにいてくれて、目を覚ましてくれて伯父さんは本当に良かったと思ってるよ」
 泣きじゃくるルイを抱き寄せ、頭を撫でる。
 あぁでも、俺だと思ってしまったがゆえにドアを開けたのか。それならもしあの日、俺がはやく行っていれば。あんなことは起こらなかったのだということに胸が軋んだ。

「もう今日は休もうか。ルイも疲れただろ?」
 クルベスの提案にルイは無言で首を横に振る。
「でも、話すの苦しくないか?」
 その問いかけに大きくしゃくりあげ呟く。
「……話す。ぼくしか、話せない」
 涙声で、だがしかしはっきりと告げる。そうか、この子はこの子なりにあの事件に対して何かできないかと考えているんだ。頑張ろうとしているんだ。ならばそれを邪魔してはいけない。

「……分かった。しんどくなったらすぐに言ってな」
 薄く微笑み、ルイを見つめる。
「伯父さん……このまんまでも良い?」
 クルベスの言葉に頷いて身を寄せたまま、かき消えそうな声で伺う。
「あぁ、大丈夫だよ」
 その小さな頭を優しく撫でると、ルイは気持ちを切り替えるように息をはいた。

「……それで、ドアを開けたら知らない人がいたの」
「覚えてたらで良いんだけど、その人どんな見た目をしてたかな?」
 ようやく話せるまで落ち着いたルイにエディは襲撃犯の特徴を聞き出そうとする。あの日、街では国の繁栄を祝う祭りが開かれていたので周辺の住宅地に人気は少なく、襲撃犯の目撃情報はほとんど得られなかった。
「……よく、分かんない……茶色い髪で、背が高くて……何もなかった」
 青ざめた顔でぼそぼそと呟く。
「何もなかった、って……どういうことか聞いてもいいかな」
 怖がらせないようにエディは努めて柔和な声を出す。
「笑ったり、怒ったり、そういう顔してなくて……目が、真っ黒な目で見てきて……」
 表情が無かったということを示しているのだろう。その時のことを思い出したのか小さく震えだすルイに、クルベスは「大丈夫、大丈夫だよ」と語りかける。

「誰だろうって思ってたら、いきなり、右手が変な感じして、立ってられなくて……」
 震えは収まらないがそれでもルイは目に涙を溜めながら続ける。
「なんでか痛くて、そしたらその人じっとぼくを見てて……怖い、怖いって思ってたら……お兄ちゃんが、来てくれた」
 ルイの大きな目が瞬き、一筋の涙が落ちる。ルイの危機に一番に駆けつけたのはやはりレイジだったのか、とクルベスは心の中で呟いた。
「それからお父さんと、お母さんの声もしたんだけど……そしたらお兄ちゃん、突然すごく痛そうにして」
 足怪我してた、と消えそうな声で呟く。
「お父さんとお母さんが玄関にいて、お兄ちゃんがぼくを持ち上げてキッチンに行ったの」
 あの廊下にのこった所々引きずったような血の跡から、レイジの足の怪我も相当酷かったのだと窺える。
「その時お兄ちゃん、言ってた。お兄ちゃんがぼくを守るからって」
 レイジなら、そう言うだろうな。あいつはルイのことを何よりも大切に考えていたのだから。

「キッチンに着いて、お兄ちゃんがタオルを巻いてくれて」
 ルイはギプスの取れた自身の右腕をぎこちない動きで擦った。ルイの言うそれは発見時に右腕にきつく結ばれたタオルのことだろう。あれでかろうじて出血を抑えられていたため、ルイはなんとか一命を取り留めたのだ。
「そしたら、お兄ちゃん言ったんだ。そこのドアから外に出てって……ぼく一人で出るんだって」
 その時のことを思い、ルイはぐしゃっと顔を歪ませる。
「ぼく、やだって言ったけど……っ、お兄ちゃん足怪我してるから……走れないから、だからぼくに助けを呼んでほしいって言ってて、お兄ちゃんは大丈夫だから、先に行ってって言ってたから、だからぼく、ぼく……!」
 クルベスの胸に頭を擦り寄せて泣きすがる。その小さな頭をただ黙って撫でた。

「外出たら、ドア開かなくて、全然動かなくて……!お兄ちゃんのこと何回呼んでも何も言ってこなくて……っ!」
 叫ぶように声を絞りだす。
 ルイだって走れる状態にないことは分かりきっていただろうに。現場の状況からレイジは最初から一緒に逃げるつもりはなかったということは明白だ。おそらくルイを逃がすためにあえて嘘をつき、おとりになったのだ。
 普段からルイに嘘はつきたくないとあんなに言っていたのに。

「とにかく、助けを呼ばなきゃって歩いてたら、目の前が真っ暗になって、体も全然動かなくなっちゃって……それで……」
 目が覚めたらここにいた、とルイは呟いた。

「……ありがとう、話してくれて。よく、頑張ったね」
 クルベスに体を寄せたままのルイに、エディは声をかけた。
「ぼく、頑張ってない……何にも、できなかった……」
 かすれた声で否定するルイ。
「ううん、そんなことないよ。君がこうしてここに居てくれたことで、お話してくれたおかげで色々分かることができた。君はすごく頑張った。ありがとう、目を覚ましてくれて」
 首を振るルイに力強く言葉を返すエディにクルベスも続ける。
「……俺も。ルイが居てくれたから、ひとりぼっちにならずにすんだ。本当にありがとう……ごめんな、怖い思いしたのに……そばにいてやれなくて」
「……伯父さ、ぼく……っ」
 顔を上げてクルベスを見る。
「これからは、ずっとそばにいるから」
 それを聞くと、ルイは声をあげて泣いた。

 結局、ルイの話から事件の日の大体のことは分かったが、レイジがその後どうなって、どこに消えてしまったのかは分からずじまいだった。煙のように消えてしまったのだ。襲撃犯の特徴も詳細には覚えておらず、特定には至らなかった。
 結論を述べると、事件の解決には到底及ばなかった。
 それに付け加えるとするならば、あの家にはもう居られないということ。ルイの精神状態を鑑みると至極当然のことだった。
 のこされた親しい親類縁者は自分だけ。
 それならば、俺がルイのためにできることなんて一つしかない。

 

 あの日から永らく訪れていなかった場所。王宮の廊下をクルベスは歩いていた。
 あぁ、以前ここを歩いていた時はまだセヴァたちが生きていたんだっけという考えがよぎり、歩みが遅くなる。
 いけない。エディにルイをみてもらっているとはいえ、ルイの元を離れる時間はなるべく少なくしなくては。そう言い聞かせ、無理やり足を動かした。

「久しぶり、だな」
「あぁ。悪いな、忙しいのに時間作ってくれて」
 そこは国王の執務室。こちらを気遣うジャルアは、目を伏せた。
「その、どうだ。あれから……その……」
 ジャルアが言葉尻を濁すのも無理はない。逆の立場だったら俺もそうなっていただろう。
「なんとか怪我は回復していってる。あの調子だとそう遠くない内に腕も問題なく動かせそうだ」
「そっか、なら良かった」
 お前自身はどうなんだ、という言葉をジャルアは呑み込んだ。仮に聞いたとしてもはぐらかされるだけなのは分かりきっていた。
「今日は折り入って相談……いや、頼み事があって来た」
 一転して、張りつめた声色でクルベスは切り出した。
「ルイを、ここに住まわせてほしい」
 そう言って深々と頭を下げた。

「おい、そんな頭下げなくても……」
「お願いだ。ルイはもう他にいられる場所がない」
 慌てるジャルアの言葉に被せるように続ける。
「俺がどっか別のとこに住んで、そこで一緒に暮らすことも考えた。でもそしたら俺がいない時にまた危険な目に遭うかもしれないって可能性が捨てきれない」
 襲撃犯は捕まっていないどころか、どこの誰かすら分からない状態なのだ。絶対に守りきる自信なんて無かった。
「この城だったら警備も厳重だし、俺の目の届く場所だ。何かあってもすぐに駆けつけられる」
 自分でも狡いやつだと分かっている。だとしても。
「……この頼みは俺の今の立場、王宮就きの医師って立場を利用するようなもんだ……でも、もう嫌なんだ……!俺はもう、失いたくない……俺にはルイしかいないんだ!そのためなら、なんだってする……だから、どうかお願いだ!ルイを、ここにいさせてくれ……っ!」
 言いながら、何故だか視界が滲んできた。
「……頭あげろ」
 ジャルアの声に恐る恐る頭を持ち上げる。
「お前に言われずとも、最初っからこっちはそのつもりだ」
 呆れたような声で告げる。
「それって……」
「あぁ、ルイの居住を許可する。てかもう取ってる」
 その証拠に、と居住手続きや警備関連、その他諸々の書類の束を引き出しから取り出した。
「幸いにも、うちにはティジやサクラもいる。同い年の子どもがいたらルイも少しは安心するだろ」
 そう告げジャルアは滅多にしない微笑みを見せた。
「で、いつ来れそうなんだ?」
 もうこっちの準備は出来てるぞと言わんばかりに。

「っ、……悪い、一生、恩にきる……っ」
「こういう時はありがとうって言え。こっちも大変だったんだから、その感謝も込めてな」
 あと一生は重い、とおどけた口調で言った。
 ぶっきらぼうで口数の少ない友人に泣きながら感謝の言葉を告げた。

 


クマのぬいぐるみはルイの部屋に今も大事に置いてあります。時々撫でたりしているそうです。ふわふわのクマさん。