11.境目-6

 そこは自分以外誰もいない空間。
 どこまでも続く広いその真っ白な空間には、至るところに箱やボロ切れのような袋が打ち捨てられていて。箱はひび割れ、袋は縫い目から引き裂かれており、その中から『黒い泥のような物』があふれ出していた。

 

 ――ティルジア。

 声が、あの人の声が聞こえる。

 ――愛してる。俺の可愛いティルジア。きみだけをずっと愛してるよ。

 聞きたくない。嫌だ。その言葉は聞きたくない。
 だが耳を塞いでもその声は絶えず自分に囁き続ける。

 

「来たんだ。久しぶり」
 違う声が近づく。すごく聞き馴染みのある声。当たり前だ。――幼い頃の自分の声なのだから。

「ずっと楽しそうだったね。ぼくのことを沈めて、まるで何もなかったように、自分は綺麗なままだと思って。ねぇ、どの面下げてみんなと一緒にいたの?君は――ぼくはこんなにも汚れているのに」
 自分と同じ顔の子どもは小さな歩幅でこちらに近づいてくる。その子は床に落ちている『黒い泥のような物』を踏まないよう器用に歩いていくと、うずくまって震えている自分の前で立ち止まった。

 

「ぼくは君だ。君は思い出した。ぼくのことを。みんなでお出かけした時にぼくは言ったよ?『だめだよ』って。……思い出しちゃいけなかったのに」
 最後の言葉は小さな声で呟かれた。自分は耳を塞いだままだったが、その小さな呟きはなぜか聞こえた。でもそれに応える余裕はない。

「このお花、覚えてる?綺麗なお花だよね。花言葉は何だっけ。じぃじが教えてくれた……確か『信頼』『自信』……あと『はにかみや』か。あの人に抱いた信頼も、あの人が与えてくれた自信も……あの人の言葉の一つ一つに照れくさそうに笑ってた日々も。全部失くしちゃったね」
 ぱさり、と渇いた音を立てて目の前に萎れた小さな花が落ちる。花はひどく色褪せていて、元がどのような色だったのか分からない。

 

「ねぇ、ずっとそうしているの?聞きたくないものは耳を塞いで聞こえないふり。『怖い怖い』って泣くだけ?それで何か変わるの?本当は分かってるはずだよね。そんなことをしても何も変わらないって」
 幼い声は淡々と自分を糾弾する。しかし耳を塞いでいる手を無理やり引き剥がそうとする素振りはない。

「それとももう嫌になっちゃったか。それならまた沈めたらいい。それでまた一から始めればいい。でも、うまくできるかな?」
「――うるさい!聞きたくない!!……もういやだ……なんで、ぼくがこんな目にあうの……っ」
 視界が滲む。泣きじゃくる自分を幼い『ぼく』は静かに見つめる。そしてひとつ息を吐くと幼い『ぼく』は背中合わせに座り込んだ。

 

「そう、それが君の答えなんだね。じゃあせめてぼくが一緒にいてあげる。ひとりぼっちの可哀想なぼく。だーれも君を助けてくれない。でも自業自得だ。そうでしょ?『嘘つきで悪い子』のくせに。今更なに被害者ぶってんの」

 分かってる。そんなこと。自分が一番分かっている。でも聞きたくない。もう何も聞きたくない。

 そうして全てを拒絶するように目を固く閉じて、かつておこなったように底なしの沼へと沈む感覚にその身を任せた。

 


 幼い声が示唆していた「みんなでお出かけした時」は幕間(4)『束の間の休息-4』の場面。この時は呼び掛けからの意識喪失からの……とかなり乱暴に止めてます。
 どれぐらい乱暴かと言うと、ティジの意識と該当の記憶の箇所を糸に見立てて、それを無造作に掴んで思いっきり引きちぎってる。そんな感じの強引な処理をブチブチッとやってます。