昼下がり。学園内のとある一角――もうすっかり馴染みの場所となった休憩スペース。そのベンチに座っているルイはボーッと手元を見つめていた。視線の先には城の料理長から貰った本日の昼食。
昼休みが始まってからもう三十分ほど経過している。だが食欲が湧かず、まだ一口も手をつけられていない。意識は目の前の食事では無く、ここ数日の出来事――ティジの事に向いていた。
ティジが意識を失ってからもう三日経った。休日の間はティジのそばから片時も離れずに『早く目を覚ましてくれ』と願い続けた。だがその間も一度も目を覚ますことは無く。
休日が明けた今朝、何も出来ない無力感から目を背けるように「せめて学校に行って、休んでいる間のノートを取っておく」と無理を言って登校した。クルベスは「キツかったら休んで良いんだぞ」と言ってくれたが、首を振って「大丈夫だ」と応えた。
されどもいざ登校してみると授業の内容が頭に入ってこない。
いつもと変わらない生徒たちの様子が、周囲の喧騒がまるで違う世界の出来事のようで。
自分たちと周囲との感覚のズレが気持ち悪い。
『……き、もち悪い……って』
その時、サクラの言葉が頭をよぎる。
震えた声が、揺れる瞳が目に焼き付いて離れない。
風が木々を揺らす。葉が擦れ合ってザワザワと立てる音が人の声ひとつしない空間を満たす。それはまるで巨大な生き物に呑み込まれてしまったかのようで。
◆ ◆ ◆
それは昨晩の事。医務室でティジの目覚めを待っていた時の出来事だった。
「サクラは……知ってたのか?」
ルイは隣に座るサクラに問う。現在サクラは他国に留学しているがジャルアから連絡を受け、居ても立っても居られず帰って来たのだという。
クルベスが十一年前の事件を話した時、この話を知っている者の中に『ティジの家族』を挙げていた。ジャルアからの連絡を受けて即座に帰って来た点も鑑みて、ティジの双子の妹であるサクラも知っていた可能性は非常に高い。
そう確信していたルイの質問にサクラはしばしの沈黙を挟むと、小さく頷いた。
「……母さんから聞いてた。だって突然いなくなっちゃったんだもん……みんなに兄さんのことを聞いても『今は少しお出かけしてる』って言われるだけで。何回か『お兄ちゃんから何か聞いていないか』って聞かれたけど『分かんない』って答えた。……だって、本当に何も聞いてなかったから」
まだ幼い子どもだったサクラに本当の事は話せなかったのだろう。もし知ってしまえば善意で周辺の者にティジの所在について聞いて回って、ティジの失踪を無関係の者にまで知らせてしまう危険性だって考えられる。
「しばらくしたら兄さんが帰ってきたから『どこに行ってたの』って聞こうとして……そしたら母さんに止められた。『お兄ちゃんはとっても怖い目に遭ったの』って……『でもお兄ちゃんはそれを覚えてないから聞いちゃダメだよ』って」
その時はそれ以上のことは教えられなかったらしい。『どうして覚えてないの?』と聞いたら『すごく怖い目に遭ったショックで忘れちゃったの』と。
「でも、いなくなってた間に何があったのか……後で聞いた。母さんが亡くなる少し前に……教えてくれた」
十二歳になった年の春。婚約者と交流する機会も増えるだろうと見越し『ティジに男女の恋愛話を振ってしまう前に話したほうが良いのではないか』という理由からサクラに事件のことを話す運びになったそうだ。
「何で兄さんがそんな酷い目に遭わないといけないの?兄さん、その人と普通にお話してただけなのに。もし兄さんを探していた時に私も知ってたら『兄さんがどこにいるか』って一緒に考えられて、もっと早く助けられたんじゃないかって、悔しくて、悲しくて……」
でも、と言葉を続ける。
「私、その話を聞いて……兄さんがそんなことされたんだって知って……信じられないって思っちゃった……」
グッと唾を飲み、唇を震わせる。それから二、三回呼吸を繰り返して、息を吐くようにか細い声で呟いた。
「……き、もち悪い……って」
その言葉にルイは目を見開く。その視界の中でサクラは自分の罪を告白するように胸の前で両手を握り合わせた。
「兄さんが自分からしたくてやったんじゃないって分かってる……っ、でも、大人の人とそういうことをしたんだって、そう思ったら……なんか、分かんなくなって、頭の中グチャグチャになって、どう接したらいいのか分かんなくなっちゃった……!」
握り固められたサクラの手が小刻みに震えていて。一つ一つ言葉を発するたびにポロボロと茶色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていく。
「兄さんは何も悪くないのに!こんなこと絶対思っちゃいけないのに!兄さんのこと、汚いって……気持ち悪いって嫌な気持ちでいっぱいになってた……!」
次から次へとあふれる涙を抑えようと両手で拭うも、ぞの手からこぼれて服を濡らしていく。
「母さんにそれを話したら『つらいこと聞かせてごめんね』って……私がそう思っちゃうのは悪いことじゃないんだって、私が、私の心を守ろうとしてそう思うようになっちゃうだけだよって!『一緒にいるのが難しそうなら今はお兄ちゃんと少し離れていたほうがいいかもしれないね』って、そうして良いって」
受け止められるわけがない。当時のサクラはたった十二歳だ。自分の近しい人間が、家族がそんな目に遭ったと聞いて、彼女自身の心が理解を拒んだのだろう。
それでも。そのあと、母が殺された際にティジに会いに行ったらしい。
その時のティジは過去の記憶が戻り、近づく人間全てに恐怖と拒絶を示している状態で。ジャルアたちからは固く禁じられていたが人目を盗んでティジの様子を見に向かった。『自分に何か出来ることはないか』という思いを抱いて。
しかしサクラを見たティジの反応はジャルアたちに向けたものと同じだった。
強い拒絶と恐怖。それに加えて一言。
――どうして、と。
その言葉は、当時ティジを救い出せなかった自分に、このような考えを抱いた自分に向けられているように思えた。
それからはティジないしはティジに抱いた暗い感情から目を逸らすように留学を決意した。
それが功を奏したのか、長期休暇の折に顔を合わす程度の接触ならばティジに忌避感・嫌悪感を抱くことは無くなったらしい。次第に精神面も成長していき、最近になってようやく関わることが出来るようになったのだと。
「私……どうしたら良かったの……?兄さんがこんな風になる前に私は何をしたら良かったの……?私には……何が出来たの……」
サクラは力無く問いかける。だがその問いに答えられる者はこの場にはいなかった。
クルベスさんがエスタさんに対して「『愛してる』って言葉を言ってしまうかも」と危惧していた理由については、すごい素直だからっていう事と、言ってる場面を目撃していたから。
『Teobroma ~マンディアンを摘まみながら~』にて「一日遅れの感謝の気持ち。俺からの愛のお裾分けだよー」と「いやいや、そんな気ぃ遣わなくていいって。ほーら、愛してるよー」って言ってます。ちなみに偶然これを聞いたクルベスさんは咄嗟にエスタさんの手を捻り上げてる。
とはいえクルベスさん自身も『聖夜にグラスを傾けて-後日談』にてへべれけに酔っ払った際に「ルイ、愛してるよ」と言っちゃってる。