31.熾火-4

 その夜。医務室のベッドの中でティジは寝苦しそうに唸った。
 隣りのベッドではエスタが眠っている。(ちなみにルイのほうはというとクルベスが心配して『また一緒に寝るか』と誘っていたが丁重にお断りしていた)
 時折「もう勘弁して……」と寝言を言っているエスタに対して、ティジはなかなか寝付けなかった。

 

 中途半端に眠ったからか妙に目が冴えている。痛み止めが切れたからか頭も痛い。ズキズキ、ジリジリと不快な痛みに苛まれる。

 ため息を漏らしたティジであったが、そこへ耳鳴りも加わってきた。頭痛だけでもひどく厄介だというのにこれでは寝られそうにない。
 キィインと耳ひいては頭の中を反響する無機質な音は、やがて自分の名を呼んでいるかのように錯覚する。

 ――ティルジア。

 窓の外では雨が降っている。サァサァと降り続ける雨音に交じって、その耳鳴りは自身に呼びかけてくる。

 ――ティルジア。今日はどんな話をしようか。

 

 耳鳴りってこんなにハッキリ聞こえる物だったっけ。

 考えようとするも頭痛のせいか頭がうまく回らない。こんな状態で考えても正しい答えなんて出ないだろう。そう判断したティジは外の様子に意識を向けることにした。
 雨は一向に止む気配が無く、窓ガラスを濡らしていく。

 

 雨は苦手だ。
 自分が最も恐れている雷は、いつも雨とともにやってくるから。
 雨が降っているといつその雷が落ちるのかと心がざわついて気が休まらないから。

 雷が怖い。鼓膜を刺すような轟音とカッと辺りを照らす雷光。
 それを認識するとどこからともなく湧き上がった恐怖心が自分を支配して、体を小さく縮こまらせて震えることしかできなくなる。
 自分が今どこにいるのか、何をしているのか、何も分からなくなって、幼子のように泣きじゃくってしまう。

 

 こうして考え事をしてると次第に気分も思考も陰鬱とした方向へと向かっていく。悪い癖だ。
 とにかく寝てしまおう。目を閉じてジッとしていればそのうち眠りにつくだろう。頭痛も心のざわつきも起きた頃には治まっているはずだ。

『大丈夫』と自分に言い聞かせて、徐々に膨らんでいく不安や自身を苛む頭痛から逃げるように瞳を閉じた。

 ◆ ◆ ◆

 ぼくはどうやら裁縫は苦手らしい。うまく縫い合わせようと奮闘するも針のような物は自分の小さな手を突いて、無数の刺し傷を作ってしまう。

 傷口からはみるみるうちに血……ではなく『黒い泥のような物』が溢れ出す。
 今まさに縫って覆い隠そうとしている『黒い泥のような物』と全く同じ物が自分の体から出てきて、服を黒く汚していく。

 それでも手は止めない。再び縫って、手を刺して、汚れて。

 かれこれ……どれだけ経ったか分からなくなるほど長い間、薄汚れた布のような物でこの『黒い泥のような物』を包んで縫い合わせて閉じようとしている。
 見えないように。出てきてしまわないように。
 何度も何度も、延々と繰り返している。

 

 以前は箱のような物にこの『黒い泥のような物』を入れて仕舞い込もうとしていた。でもその方法じゃ上手くいかなくて。だから今度は布か何かで覆い隠してしまおうと思った。

 でもやっぱりダメだ。箱に閉じ込めようとした時と同じように、どこからか空いた隙間からこぼれ出てきてしまう。

 それに何故だろう。今回は本当にうまくいかない。これまでも多少失敗することはあったけど、今回は何から何まで全部うまくいかない。

 お母さんにお裁縫を教えてもらえばよかった。
 じぃじなら綺麗に箱に詰める方法を知ってたかもしれない。
 お父さんなら、きっともっと上手にできるんだろうな。

 

 みんなのことを考えていたら自分の目からポタポタと雫が落ちた。
 それは止まらなくて、必死に抑えようとしても次から次へと溢れてしまう。

 泣いちゃダメだ。ぼくが泣いたらみんなを困らせちゃう。そう言い聞かせながら、自分以外誰もいない空間で声を押し殺してうずくまる。

 どうして。
 どうしてこんなことになったの。
 ぼくはどうしたら良かったの。

 すすり泣きながら「どうして。どうして」と繰り返す。 
 考えるな。もう何も考えたくない。
 でも今やっている作業は続けないと。この手を止めちゃいけない。
 そう自分を叱ると頬を伝う涙を拭うこともせず、中断していた『黒い泥のような物』を覆い隠していく作業を再開する。

 

 この『黒い泥のような物』を全部消してしまえばもっと楽になれただろうに。
 だけどそうできるほどの力はぼくには無いだろうし、そもそもやり方を知らない。

 それに何より――そうしたくはなかった。

 この『黒い泥のような物』は今はこんな見た目になってしまったけれど……元はもっと綺麗で、あたたかくて、自分にとってとても大切な物だったはずなんだ。
 そのことまでは無くしてしまいたくはない。失いたくない。

 でもこれを持ったままだとダメなんだ。
 これを持ったままのぼくはみんなと会う資格が無い。嘘つきで悪い子のぼくがみんなと会う資格なんて無い。

 だからぼくは、このひとりぼっちの空間で終わりの見えない作業を続ける。

 

 黒い泥のような物に触れてみんなのことや『大好きだったあの人』のことを考えると、胸の奥がジリジリと焼けるような痛みに苛まれる。

 その痛みはここに来てからずっと、どれほどの時が経とうとも立ち消えることはなく。
 熾火のようにただ静かに自身の心を焼き続けていた。

 


 実は第三章はこの回でラスト。スパッとキリ良く終わるのではなく、ゆっくりフェードアウトしていくような感じ。