「ぅ……っ」
目を開ける。すると目の前には真っ白な景色が広がっていた。自分以外なにもない、遠近感すらも失ってしまいそうになるほどの白。その中心に自分は横になっていた。
この状況は三度目だ。それが指し示すことはひとつ。
――あの夢だ。またここに来られたんだ。
そうと分かるとまだ微睡んでいた意識を覚醒させて体を起こした。
目を覚ましたら今度はいつ来られるか分からない。そもそもまたここに来られるという保証はどこにも無いんだ。
ならば今ここにいるうちに少しでも自分の記憶に繋がる物を見つけないと。
父さんは「大丈夫」だと言ってくれた。でもやはりサクラを泣かせてしまった大元の原因は自分の記憶がないことだ。記憶が戻れば、きっとみんなを安心させてあげられる。
冷静に、でも迅速に周辺と自分の状況を確認する。相変わらず周囲は何もない。前回は手首に傷のようなものが表れた記憶がある。だが今見ても自身の手首にはそれらしき傷は全く見当たらない。
とりあえず今この場において記憶に繋がる物は何もない事だけは分かった。ならばここでジッとしていても状況は好転しないだろう。それなら次はこれまでの夢と同じように歩いて、変化が発生してくれる可能性に賭けるしかない。
夢の中を駆けていく。周囲に注意を向けながら。自分の体に変化が表れないか。何が聞こえてもすぐに反応できるよう耳をすましながら。
そこでふと気が付いた。ここに来るときまって聞こえていた誰かの声が全くしない事に。
「ティルジア」と呼んでいたあの声が、歩けども歩けども聞こえてこない事に。
前回あの声は何て言っていたんだっけ。
思い出そうにもどんどん記憶が霞んでいって思い出せない。
かろうじて残っていた手掛かりがこの手からこぼれ落ちてしまうような感覚に襲われて。不安が、焦りが心を蝕んでいく。
何もない空間に唯一ある音は自分の歩く音や息遣いだけ。それでも立ち止まることは出来ない。ここで自ら足を止めてしまったら、きっともう動けなくなる。
立ち止まる事すら出来ず、取り憑かれたように足を進める。すると突然何か硬い物に真正面から衝突した。顔や胸など体の前面をしたたかにぶつけ、その痛みに悶絶する。
夢の中なのに痛みって感じるんだ。
そう感心しながら顔を上げると、目の前に何の変哲もない扉が佇んでいることに気付いた。
同じだ。一回目の夢の時に見つけた花と同じ。先ほどまで何も無かったはずなのに突然目の前に現れた。
見たところ扉が一枚、そこにあるだけ。周辺にはもちろん壁もない。でも何故だか、この扉の先に記憶に繋がるナニカがある、と確信できた。
ドアノブに手を伸ばす。一回目の夢の中で見つけた花は触れる直前で姿を消してしまった。だがこの扉は消えることはなく触れることができた。
ようやくだ。ようやく自分の記憶に繋がる物が手に入る。
緊張で手に汗が滲む。深く息を吸い、今一度しっかりとドアノブを握りしめる。そして、意を決してドアノブを動かした。
――だが、ドアノブは途中で止まった。
どれだけ力を込めようともそれ以上動くことはなく。鍵でも掛かっているのかと思ったが、鍵穴の類いは見当たらない。それなのに、何故か扉は開かない。
「開かないよ」
背後から、声。
振り返るとそこには小さな子どもが立っていた。パーカーを羽織り、フードを深く被っているため顔は見えないがその背格好は見覚えがある。二回目の夢の時に見た子どもだ。
「その扉は、開かない」
立ちすくんでいる俺にその子どもはもう一度、言い聞かせるように言葉を重ねた。
「君は……」
「声まで出るようになったんだ。そこまで入り込んじゃったんだね」
子どもに指摘されて声が出せるようになっていた事に気付く。これまで見た夢とは全く異なる状況に驚きと困惑が隠せない。そんな自分をよそに子どもは淡々と呟く。
「もう来るなって言ったのに。どうして守れないの?好奇心の赴くままに行動して、その結果がどうなるかなんて考えもしない。……記憶を失くしてもそこは変わらないんだね」
「君は……俺なの?」
「分かっているくせに。まだ知らないふりをするんだ?」
子どもはまるでこちらを責めるように問いかける。その声はこれまでたびたび聞こえていた幼い自分の声と同じで。きっとあのフードの下には自分と同じ紅い瞳が輝いているのだろう。
「ねぇ、お願いがあるんだ。俺の記憶について知っている事があれば教えてほしい。俺は思い出さないといけないんだ。記憶を失っていることでみんなにすごく迷惑をかけている。思い出せたらきっと――」
「そうしたらもっと酷いことになるとしても?」
まるで突き放すかのような物言いに思わず「え」と声が漏れる。
「おかしいと思わなかった?みんな自分のことは心配してくれてるはずなのに、誰も『はやく記憶が戻るといいね』って言わないことに」
そうだ、この子の言うとおりだ。父さんもクルベスさんもエスタさんもみんな、俺が記憶を取り戻すための提案に付き合ってくれている。でも誰一人、記憶が戻ることへの期待や願いは口にしていなかった。そしてその矛盾に薄々気付いてはいたけれど『きっと自分の考えすぎだ』と思うようにしていて。
「思い出してどうするの?思い出したらきっとまた同じことを繰り返す。ほら、聞こえてきた」
子どもがそう告げるとソレは始まった。
辺りを照らす強い光。
大地を裂くような轟音。
激しい雨の音と共にやってくるその現象の名前が何故か思い出せない。ただ、訳も分からず涙が溢れてきて。呼吸が出来なくなって。耳を塞いでうずくまることしか出来ない。
「ね?覚えていないはずなのに、君はそうやってただ怯えて震えることしかできない。ひとりぼっちの可哀想なぼく。君が覚えていなくてもその傷は決して消えないんだよ」
自分が今いったい何をしているのか、何をされているのかも分からなくて。
その時。耐え難いほどの頭痛と襲いくる恐怖に押し潰されそうになっていた自分の耳に、誰かの声が届いた。
誰かが自分に呼びかけている。
その誰かは「大丈夫」と。
「そばにいるから」と。
「ひとりじゃないよ」と。
何度も呼びかけ続けていた。
その声は夢の中で幾度も聞こえてきたものとは違う声で。気付けば雨音も、怪物の咆哮のような轟音も消え去っていた。今の声は――……。
「そっか、今の君にはその子がいるんだ。……今度は間に合うといいね」
その言葉の意味を聞こうと顔を上げる。だが幼い自分の顔はフードで隠れていて、その表情は窺い知れない。
「……もしも」
幼い自分は俯いたまま、ぽつりと呟く。
「もしもまた耐えられなくなったら戻ってくるといい。その時はぼくももう追い出したりしない。ぼくはいつでもここにいる。誰もいなくなっても、ぼくだけは君のそばからは離れないから」
幼い自分はそう言うと「それじゃあね」と告げる。その瞬間、視界が白んで思わず目を閉じる。次に目を開けた時には自分は自室のベッドの上にいた。
ティジはクルベスさんたちへのインタビュー以外の時間はエスタさんと一緒にお勉強をしていますが、この世界に魔術というものがあるという事はまだ教えられていない。
もしも魔術というものがあると知ったら「自分の周りで使える人はいるの?」という質問はするだろうし、ゆくゆくは「父さん(ジャルア)は何か使えたりするのかな」と聞かれる事は確実なので。記憶に干渉する魔術の存在なんて知ったら「もしかして俺が記憶を失くしたのって……」と考える可能性は十分ある。そういうわけで今のティジには魔術に関する知識は一切触れさせていない。