06.境目-1

 医務室の中。ソファに浅く座っているエスタの手にはつい先ほど通話を終えた携帯電話が握られている。先ほどから何度もため息を吐いている彼はまばたきの回数も平常時よりも格段に多く『いま自分は落ち着きがありません』と全身で表現していた。

 ここ数日のエスタはもっぱらこの様子である。何が彼をこのような状態にさせているのか。……なんて察しの良いクルベスでなくとも容易に想像がつく。

 

「そんなに心配しても仕方ないだろ。こっちから何か出来るわけじゃあるまいし」
 浮かない顔のエスタを見かねて、クルベスは言葉を投げかけた。

 先ほど終えた通話――昼休み中のルイとの通話でもエスタはこれでもかというほど何度も注意を促しており「連絡くれたらすぐに駆けつけるから!」と言って会話を締めくくっていた。
 それほどルイの事を気にかけてくれているのはありがたい。だが毎日この調子で心配されているルイにクルベスは若干の同情を寄せていた。

 

「分かってます。分かってますよ。でも心配するなって言うほうが無理がありますって……逆に聞きますけど、何でクルベスさんはそんなに落ち着いていられるんですか」
 普段と変わらない(ように見える)クルベスにエスタは問いかける。
 むしろクルベスも自分と同じ調子になるかと思っていたのに。何だか裏切られた気分だ、とエスタは心の中で呟いた。

「ルイが『一人で行く』って決めたんだから俺たちには何も出来ないだろ。さすがに学校内に立ち入って見守るのは無理があるし……いや、方法が無いこともないが」
「どんな方法ですか」
「やめとけ。ルイに口きいてもらえなくなるぞ」
 ソファから腰を上げ、食い気味に問いかけてきたエスタをクルベスは軽くあしらう。エスタとしてもそれは本意ではないのか「うぐっ、それはキツい……」とソファに座り直した。

「でも本当の本当に心配なんですよぉ……どうしよう、弟くんが危ない目に遭ったら……そしたら俺、そんな事した奴に何するか分かんない……」
 エスタはそう言うと頭を抱えて唸り始める。
 最後の言葉は非常に小さな声だったものの、クルベスの耳にはしっかりと入っていた。が、エスタはそこまで非道な事は行わないと信じているのでひとまず聞こえてないフリをしておく。

 

「はよ戻れ。あんまり長居してると上司がお迎えに来るぞ」
「はぁい……」
 エスタは深いため息とともに返事をし、気怠げに立ち上がる。のそのそと気重な足取りで扉へと向かうが、扉を閉める直前に「弟くんから何か連絡来たら俺にも教えてくださいね!」とだけ言い残して、今度こそその場を後にした。

 エスタはたびたび「レイジって弟くんに対して過保護すぎじゃありません?」とぼやいていたが、エスタも段々とそちら側に寄っていっている気がする。おそらく気のせいではないだろう。かく言うクルベスも人のことは言えないが。

 ◆ ◆ ◆

「なんっっなんだお前は!!飽きもせず毎日毎日おちょくってきやがって!!」
 怒号を浴びせたルイにシンはたじろぐこともなく笑う。
「そんな大声出したら喉痛めちゃうよー?」
「テメェのせいだわ!!」

 ルイがここまで激昂しているところはエスタどころかティジすらも見た事がないだろう。このような事態になった原因はつい先ほどシンが働いた行動にある。

 

 授業の合間の休憩時間。ルイは例によって例の如くシンから「ねぇねぇ」と声を掛けられた。無視しても反応するまで話しかけ続けるので、仕方なくそちらに顔を向けると、ルイの視界におどろおどろしい絵が飛び込んできた。

 心霊系や怪異などのホラー物全般が大層苦手なルイ。それをしっかりと目に焼き付けてしまい、電光石火の速さで飛び退いたが彼のそんな反応にシンは「わっ、すごーい」と間延びした声で茶化してきたのだ。

 その舐め腐った態度にルイは罵声を浴びせそうになったが、他の生徒たちから注目が集まっていることに気がつき、ひとまずシンの腕を掴んで場所を移動することにした。

 

 なお、今回のように目を見張る速度で飛び退かなくともルイは日頃から周囲の目を引いている。特にここ数日は物憂げな表情で窓の外を見遣る様子が見られているのだが、その姿が周りの者を悩ませているのだ。

 風邪で休んでいるティジを案じて時折ため息を漏らし、緩慢な仕草で視線を窓の外へと流す。陽の光を受けた暗褐色の髪が端正な顔に影を落とすが、その蒼い双眸は輝きを失うことはない。

 ティジと共にいる時とは全く異なるその姿は夜の間だけ花開き、翌朝には枯れてしまう月下美人の花のような儚げな印象を抱かせる。

 もしもこの場にエスタがいれば「弟くんのことを考えてる時のレイジにそっくり」と言うだろう。エスタはレイジのそんな表情をすっかり見慣れているのである。

 

 閑話休題。
 ここ数日のシンの行いの数々に苛立ちや憤りが積もりに積もっていたルイ。手近な空き教室を見つけ、シンをそこに押し込むとこれまで溜め込んでいた物を一気に放出するように最大級の怒声を響かせた、という次第だ。

「それにしてもこんな人気のないところで二人っきりになろうとするなんて、騎士君って意外と大胆だね」
「今日こそ泣かす。完膚なきまでに徹底的に泣かしてやる」
 拳を握り固めるルイにシンはフッと鼻で笑う。

「涙目になってるのは騎士君のほうだけど」
「歯ぁ食い縛れ」
「いきなり殴るでもなく事前に警告してくれるなんて騎士君ってば優しーい」
 懲りずにからかうシンにルイは歯を剥いて詰め寄る。そんな彼をシンは「まぁまぁ。ちょっと聞いてよ」となだめた。

 

「気付いたんだけどさー、お互い好きな物も嫌いな物も全然知らないじゃん?でも騎士君が好きそうな物ってパッと思いつかなかったから、じゃあ苦手な物を当ててみようかなーって。そしたら見事に大当たり」
「何でそっちの方向に舵を切るんだよ。そこは考え直せよ」
 やったね、と指を鳴らすシンにルイは思わず漫才のような返しをしてしまう。

「だけどこのままだと俺だけ『騎士君は泣いちゃうほどこわ〜い物が苦手』って知ってる状態になっちゃう。でもそれって騎士君にとってはすっごく不公平でしょ?てなわけで仕方ないから俺の苦手な物も教えてあげるよ」
 騎士君だけに特別、と調子づくシン。ルイは「元はと言えばお前が勝手に仕掛けてきたんだろうが」と眉間にシワを寄せるも『まぁこの男の弱みを知っておいたほうが精神的に余裕も出るか』とむりやり自分を納得させた。

 

「俺の苦手な物はね、人と適切な距離感を取ること。自分のものさし……あ、ここでいう『ものさし』って長さを測る物差しじゃないよ?考え方とか判断基準とかそういうやつね。それがどうにも人とはズレているみたい」
「そんなの薄々分かってたわ。てかそれは『苦手な物』じゃなくて『不得手としている物』だろ。俺のやつと釣りあわねぇぞ」
「えぇー、これ以上欲しがっちゃう?もしかして騎士君って俺のことが気になってる感じ?ごめんね。俺、騎士君の気持ちには応えられそうにない」
 手を合わせて眉を八の字にするシンにルイは呆れて言葉も出ない。

「……別にお前がティジのことをどう思ってようが俺は咎めねぇけど……もう少し言動をあらためたほうが良いぞ」
「おや、助言?それとも牽制かな?」
「喧嘩売ってんのか」
 再び怒りを露わにするルイにシンは「わぁ怖い」と軽くいなす。

「騎士君って優しいよね。普通の人だったらとっくの昔に『二度と関わるな』ってブチギレてるものなのに」
 人が良いというか、とシンは穏やかな声で告げる。
「そんなこと言われても、さっきのことは許さねぇからな」
「あ、やっぱり?」
 油断したらすぐこれだ。というかキレられる可能性もちゃんと考えていたのか。なら尚更やるな。

 

「じゃあ騎士君からのありがたい助言のお返しに。俺からもひとつだけ言ってあげる」
 そう言って人差し指を立てると言葉を紡いだ。

「騎士君はさ、もう少し自分の周りを見たほうが良いよ」
「……どういう事だ」
 問い詰めるルイに対してシンは立てた人差し指を左右に揺らし、真意が読めない笑みを浮かべた。

「どういう事も何も。もう少し注意深く、周囲に目を向けたほうがいいってこと」
 シンは言葉を続けながらルイを中心に円を描くように、ゆっくりとした歩調で歩く。

 

「騎士君って素直だからさ。目で見た物、聞いた物をそのまま受け入れてそうだなぁって。ティジ君は何か気になったらその原因が何か突き詰めていくような気概を感じるけれど、騎士君はその逆。気になる事があってもそこで足を止めちゃうタイプでしょ?不必要に踏み込むべきじゃないって、どこかで遠慮してる。もう少しティジ君みたいに好奇心のおもむくままに動いたほうが良いと思うんだけどな」
 シンはそこまで語るとルイの背後で足を止める。

 

「まぁ『好奇心は猫をも殺す』って言葉もあるけど」
「何が言いた――」
 ルイは背後のシンのほうへと向き直り、一歩踏み出す。
 するとルイの足裏が何かを丸い物を踏んづけて盛大に転けた。「いったい何が起きた」と足元をみると、誰かの忘れ物なのか無骨なデザインのペンが転がっていた。

「ほーら、引っかかった!騎士君って本当に分かりやすいよねー!」
 シンは床に無様に這いつくばっているルイをケラケラと笑い飛ばすと、そのまま助け起こすこともなく教室から出ていく。その直後に空き教室からけたたましい怒声が響いたのは言うまでもない。

 


 シン君にしょっちゅう頬をつつかれて大変ご立腹のルイですが、第二章(2)『ティジの一日』ではクルベスさんからも同じように頬をぷにぷにツンツンされております。なお、それに対するルイの反応は異なる模様。まぁ状況も間柄も全く違うからね。

 ついでに言うとルイとレイジはどちらもお顔が大変お綺麗ですがその分類は少々異なる。
 二人をよく知っているエスタさんによると「レイジは触れようとするとこちらも凍ってしまいそうな感じの端正なお顔。まぁその実、結構気まぐれで危なっかしいというか放っておけないという意味で目が離せないところがあるけど……猫ってあんな感じなのかな。一方で弟くんもレイジと同様に美人さんなんだけど、あいつよりはどこか柔らかさがあるな。なんだろう……レイジから冷たさをちょいと抜いてその代わりにあどけなさを加えた的な?」だそうです。