10.境目-5

「俺はティジの様子を見に戻ろうかと思ってる。ルイ、お前はどうする?」
 話が終わった後もしばし放心していたルイの耳にクルベスの声が入る。その声にルイはうまく働かない頭を無理やり起こした。

「あ……俺は……おれ……は……」
 一緒に行く、という言葉が何故か喉でつかえてそれ以上出てこない。何度か声を出そうと試みるも弱々しく空気を吐き出すだけ。そんなルイの様子にクルベスは椅子から立ち上がりながら口を開く。

「少し休んだほうが良いな。待ってろ、エスタを呼んでくる」
 クルベスはそれだけ言うと部屋の外で見張りをしているエスタを呼びに行く。二言三言交わしたクルベスは「それじゃあ頼む」とエスタに後を託した。

「弟くん、とりあえずお部屋に戻ろうか。立てる?難しそうなら……」
「立て、ます……大丈夫です」
 何に対しての『大丈夫』なのか自分でも分からない。鉛のように重い体を立ち上がらせたもののまるで雲の上を歩いているかのように足元がふらつく。そんな状態を見かねたエスタが介助しようと手を伸ばすが、ルイは小さく首を振って断った。

 

 いつも歩いている道のりが遠く感じる。
 ようやく自分の部屋にたどりつくとルイは倒れるようにベッドに座り込む。エスタはその隣に腰を下ろすとルイの背中を遠慮がちにさすった。

「エスタさんは……知ってたんですか……?」
 無言でルイの背中をさすり続けるエスタに問いかける。その言葉にピタリとエスタの手が止まる。
 しばしの沈黙。背中にあった手の熱が離れていくのを感じると、エスタは「うん」と頷いた。

「いつから……」
「ここに赴任してすぐ。クルベスさんから教えられた。俺はたぶん……言っちゃうかもしれないからって」
 その唇が小さく動き、一つの言葉を形作ると再び閉口した。

 

 ――『愛してる』って。

 クルベスが言っていた禁止事項の一つだ。

「でもね、最初はクルベスさんも話すつもりは無かったんだよ……!ただ禁止事項だけ話して、それに俺が『もしかして』って考えたことがたまたま当たって……それで事件のことを話してくれたから……クルベスさんは悪くないんだよ」
 クルベスを責めないでやってくれ、と弁解するエスタにルイは「分かってます」と力無く返す。

「エスタさんのほうでも……何か知ってることがあったら教えてくれないですか」
 そう言われたエスタは困ったように眉をへたらせたが、一つ息を吸うと「弟くん」とルイの目を見据える。

「弟くんがティジ君のために何かしたいって思うのは分かるよ?でも……こういうのはあんまり深追いしないほうが良い。かなりショックな話だったんだから、聞くだけでも心は傷ついちゃう。今は休んだほうが――」

「俺だけ何も知らないんだ!!」
 張り上げた声にエスタはハッと息を呑んだ。

 

「ティジがそんな、ひどい目に遭っていたのに!俺は……俺だけ何も知らないで、みんな知ってたのに……っ!俺が弱いから?もし知ったら動揺するって思ったから?それでまた俺だけ除け者にするんですか?そっちのほうがよっぽど残酷なんじゃないですか……っ」
 そうやって散々攻撃的な言葉を浴びせてしまったあとで我に返る。見るとエスタは目を伏せて下唇を噛んでいた。

「す、みません……俺……」
 エスタに当たるのはお門違いだ。彼の独断でこの件を話すことなんて出来ない。それにもしもこの件を事前に聞かされていたら、ティジとこれまで通り変わらず接することはおそらく難しい。
 ティジのことを思えば、自分に話さないでいることが一番穏便に済む。

 対して自分はどうだ。『自分だけ仲間外れにされた』と勝手に失望して、自分を気遣ってそばに居てくれているエスタに八つ当たりしている。自分のことしか考えていないではないか。

 

「……ごめん。そうだよね、弟くんだってキツいよね。『話してくれなかった』って事がどれだけつらい物なのか俺知ってるのに……本当にごめん」
 背中を丸めたエスタは手で顔を覆うと深く息を吐く。

「弟くんはティジ君のことをどこまで聞いた?」
「どこまで……って……事件のことはおそらく全部。リエって奴がティジと仲良くしていて、そいつがティジを……。それからティジは自分で記憶を消して……あと禁止事項についても……」
「レイジのことは?」
 予想だにしていなかった名前がエスタの口から出たことに「え?」と声が上擦る。ルイの反応にエスタは「クルベスさん、話し忘れてたのかな……」と嘆息した。

 

「弟くんはさ、ティジ君がレイジと会ったのは、ティジ君のおじいさんのお葬式の時って聞いてるでしょ?」
 そういえば以前に皆で旅行した際にクルベスがそのようなことを言っていた気がする。

「あれは本当は違うんだ。ティジ君がレイジと会ったのはそれよりもっと前。ティジ君が6歳になる少し前のこと。あいつ、魔術の練習とかでたびたびこの城に来ていて、その時にティジ君とも会ったんだって」
 クルベスさんからそう聞いた、と呟く。
 そういえば昔レイジは週末になるとクルベスと一緒にどこかへ出掛けていた時期があったが……てっきり二人で仲良く遊びに行っているのかと思っていた。そうではなく城に行って魔術の練習をしていたのか。レイジも否定していなかったので疑うことすらしていなかった。

 

「二人は結構仲良くしていたみたい。あいつが魔術を使うところをティジ君はすっごくキラキラした目で見ていて、レイジもまるで弟くんと一緒にいる時みたいに優しい表情していたんだって。だけどあの事件が起きて……レイジの事も全部忘れちゃったんだ」
 事件より前にあった出来事もかなりの範囲で失われていた。
 先に会話でクルベスがそうこぼしていたことを思い出す。

「あとで分かったことなんだけど、事件の取調べで……どうやらリエって奴と交流があった時期と、レイジと仲良くしていた時期が重なっていたみたい。それで記憶を消す時に一緒に消えちゃったんだと思う」
 自分がこの城に移り住んだばかりの頃、ティジにレイジの事を話した時にすでに知っているような素振りは一切見られなかった。レイジに関する記憶が全て無くなっていたのだからそれも当然か。

「でもレイジに事件のことを話すわけにはいかない。情報が広まるリスクはなるべく避けたいし……何より子どもには話しにくい内容だからね。だからレイジには『警備が厳しくなった』って理由で城から……ティジ君から遠ざけるようにしたんだ」
 エスタはそうして手を組むとその指先をぼぅっと見つめながら言葉を続ける。

 

「確か……一年前のレイジの件の時、ティジ君は一人でレイジに会いに行ったんだよね?あの子のお母さんがどうして亡くなったのかって聞きに。たぶんクルベスさんも生きた心地がしなかったんじゃないかな。だってもしもレイジがティジ君と昔会ったことを話したら……これまで守り通してきた物が全部水の泡になっちゃうんだから」
 あの時、ティジと共に帰ってきたクルベスは今までに類を見ないぐらい憤っていた。城を抜け出した、という無謀な行動に憤慨していた事もあるが、動揺を悟られぬよう過度に怒りを見せていた可能性だって考えられる。

「……俺、本当に何も知らなかったんですね」
 聞けば聞くほど無力感に打ちひしがれる。この件について知っていれば自分も何か手助け出来ていたのではないか、と。考えても仕方がないことだが。

「弟くんが気に病む事は無いよ。これに関しては……どうしようもできなかったんだから」
 覇気の無い声で呟くとエスタは再びルイの背中をさすり始めた。

 ◆ ◆ ◆

 ジャルアの背後で医務室の扉が開く音が鳴る。もしも衛兵やその他一般の者ならば「いまこの部屋の主は不在だ」と、出直すかここで待つかを提案するだろう。だがそれは不要だ。何故なら入ってきたのはこの部屋の主――クルベス・ミリエ・ライアなのだから。

 クルベスはティジはまだ目を覚ましていないことを確認すると、落胆した様子で折りたたみ式の椅子を開き、ジャルアの隣に腰掛けた。

「ルイとの話は終わったか」
「あぁ。動揺してたからエスタに付き添ってもらってる」
「無理もねぇよ……あんな内容だからな」
 吐き気を抑えながらぼやくジャルア。その頭によぎるのは十一年前に視た、あの子の記憶。
 ティジの抱いた哀しみが、恐怖が、絶望が心を締め上げる。そんなあの子を救えなかったどころか、またこうして思い出させて、同じ苦しみを味わわせてしまったという事実に心臓が握り潰されそうだった。

 

「……ルイとどう関わったら良いのか分からなくなってた」
 ぽつりと呟かれたジャルアの言葉にクルベスはうなだれていた顔を上げる。

「普段ティジとあんなに仲良くしてくれてるのに……雷の日は俺やお前が居られないから、代わりに一緒にいてもらって……あの子に頼りきってるっていうのに。あの子がティジに……恋心を抱いているって聞いて、最悪の事態が起きる前にどうにかしないとって……あの子に害を為す前にすぐさま引き離さないとって、ずっと考えていて……」
 ジャルアの声は次第に湿り気を帯びていく。目尻からあふれ出た雫がその頬を伝って、ぽたりぽたりと落ちていった。

 

「俺がそんなこと思う資格ないのにさ。いまだって……少しでも早く目覚めてほしくて、何かしてやりたいって、この手を握ってやりたいって思ってるのに……出来ないんだ。俺の力が変に働いて、この子をもっと苦しませるんじゃないかって、そう思ったら……手なんてとても握れないんだよ……っ」
 見るとジャルアの手は祈るように固く組まれていた。クルベスがこの部屋に戻って来るまでの間に何度伸ばされ、何も掴む事なく戻されたのだろう。

 その手にクルベスは自身の手を重ねると、それ以上言葉を掛けることなく包み込む。自分と同じように冷え切ったクルベスの手は、まるで互いを温め合うように静かに握り続けていた。

 


 前回の冒頭。エスタさんが駆けつける事が出来た件について。
 クルベスさんがティジを運んでいくところを見た衛兵さんがエスタさんに「王子様が運ばれてくの見たんだけど。お前、様子を見に行ったほうがいいんじゃないか」と言ってくれた模様。
 日頃ティジたちの送り迎えをしていることもさることながら、城内でも仲良くしている様子を見ていたので心配になって教えてくれたようです。それを熱血ご指導中だった上官は「さっさと行け」とぶっきらぼうに送り出したとか。優しい人に恵まれてる良い職場。

 エスタさんがティジの件を知ったのは第二章(23)『衛兵はかく語りき-4』の時。
 幕間(1)『束の間の休息-1』でクルベスさんに「なぜすぐ話してくれなかった」と糾弾していたエスタさんですが、皮肉なことに今度は自分が糾弾される側に立っていた、というわけですね。