夜半。先刻まで賑やかだった国王の寝室は静寂に包まれていた。ベッドの中、毛布にくるまりながらジャルアは子どもたちとの幸福な時間を振り返っていた。
ようやく気兼ねなく子どもたちと会うことができ、家族の思い出を語らっていた。これ以上にないほどの幸せに胸の内が温かくなる。
サクラも寂しく思っていたのだろう。嬉々として学校で起きた出来事や友人との日常を話してくれた。他所の国の学校に通わせることに不安はあったが、あの様子だと学校生活を満喫できているようだ。
久々の外の世界、外部との交流に気疲れしていた様子のティジも終始笑顔が絶えなかった。良い気分転換になってくれただろうか。
幸せに浸る自分を戒めるように、あの声が頭の内側で反響する。
何もできなかった自分に向けられた声。
それは真綿で首を絞めるようにじわじわとジャルアの心に影を落としていく。
助けてあげられなかったあの子の姿は今も脳裏に焼き付いていた。
眠る前にこんな思考に陥ると、きまって同じ夢を見る。――四年前、最愛の妻を失ってからの出来事を。
◆ ◆ ◆
ユリアが亡くなった。それを目の前で見たティジはレイジの逃走直後に意識を失ったものの、一日も経たないうちに目を覚ました。頭を強く殴打されたため目を覚まさないまま昏睡状態に陥る可能性も考えられたが、それは避けられたらしい。
そのことにホッとしたのも束の間、途端にティジは頭を抱えて呻きはじめた。
「ティジ!待ってろ、いまクルベスを呼ぶから――」
「レイジ、さん」
「え?」
ティジの口から出た文言にジャルアは耳を疑う。
なぜ、レイジのことを覚えている。
「お母さん、レイジさんが、お母さん、お母さん……っ!」
レイジと関わりのあった期間は『あの忌まわしい出来事』に近い時期だった。だから『あの忌まわしい出来事』の記憶に巻き込まれるようにして消えてしまったはずだ。
否、消えたわけじゃない。
沈めたんだ。この子自らの手で。
ということは。レイジとの記憶が戻っているということは最悪の場合、誘発して『あの記憶』も戻っている可能性がある。
「ティ、ジ……ティジ!聞こえるか!?ここはお前の部屋!お前はいま12歳だ!ティ――」
「ぼくのせい、ぼくのせいだ……!ぼくがいたから、ぼくがいなければ……ごめんなさい、ごめんなざいぃ!!」
次いで、ティジの口から確かに『ある人物』の名前が出た。
――あぁ、ここまでみんなで守ってきたのに。
こんなかたちで崩れるなんて。
ティジはそれ以降、日がな泣き通していた。食事を摂るどころか、まともな会話すら見込めない。ひとまず落ち着かせようにも近づく人間は全て拒絶するのだ。拒絶して、なぜ自分がそうしてしまうのかも分からずひどく混乱した様子で謝りだす。
泣き疲れて眠った時だけ近づくことができる、と語るクルベスの表情から絶望的な状態だというのは火を見るより明らかだった。
明日、ティジの今後について元老院と会合がおこなわれる。ジャルアは『その前に今一度あの子の様子を確認しておこう』と重い足を向けた。
扉越しにもあの子の泣き声が聞こえる。なるべく音を立てないようソッと扉を開いた。
「ひぐっ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!ぼくが、ぼくのせいでお母さん、なんで、なんでぇ!」
ベッドの上でうずくまって懺悔をするように悲痛な声をあげ続けるティジ。ジャルアの存在に気づくと身をすくめて後ずさった。ずっとこんな調子だからだろう。何度も苦しそうに咳き込みながら、声を枯らす。
「おどうざ、なんで……?ぼくが悪い子だから来たの?うっ、お父さんも、ひどいことするの?ぼく、わかんない、わかんないよぉ……!」
この物言いだと自分の年も正しく答えられなくなっているのだろう。『自分が姿を見せることで少しでも安心してくれたら』と思っていたが……それも見込めそうにない。
「こわい、ひっぅ、みんなぼくのこと嫌いなんだ!だから……っ」
「ティジ、俺はお前のこと嫌いなんかじゃ――」
「来ないで!!」
近付こうと足を動かすとティジは絹を裂くような声で拒む。すると動きを止めたジャルアに、自分が何を言ったのか理解した様子で顔を青ざめさせた。
「あ、ちがう……っ、そんな、何で?お父さん、違う、違うのにぃい……!」
それからはうめくようにすすり泣きながら「こわい」と「ごめんなさい」を繰り返すだけ。
もう、この子の心は壊れてしまっていた。
それから数日が経ち、ティジの記憶を書き換える日が来た。事前に決めた通り、唯一そばにいることができるルイに気を逸らしてもらっている間に、クルベスの治癒の魔術を応用してティジの気を失わせた。ここまでは順調だ。
気を失った後もティジは涙を流し続けている。時折うわごとのように『ある人物』の名前を呼びながら。
「ルイには『あとは任せとけ』って伝えてる。……本当に大丈夫か」
クルベスの声に振り返ることなくジャルアは頷いた。
クルベスが心配するのも無理はない。彼はジャルアの魔術の特性を熟知しているのだから。
「この子のために俺ができることなら何でもする。この子がこんな状態になるまで何にもできなかったんだから」
ジャルアの視線の先、ベッドに下ろされたティジが苦し気に息を吐く。
独りでずっと耐えて耐えて、壊れてしまった。
あの時は手出しすることもできなかったが、もしかしたら今回なら何かできるかもしれない。一度に複数の記憶の書き換えなんてやったことは無いが、ぶっつけ本番でどうにかするしかない。
「お前はルイのそばにいてあげてくれ。あの子にはもうお前しかいないんだから」
ずっとティジを案じてくれた優しい子。ルイだけでもティジのそばにいられたのは幸いだった。そのおかげで比較的安定した状態で記憶の書き換えをおこなえる。『あの子には感謝しないとな』と心の中で呟いた。
「連絡くれたらすぐ駆けつけるから」
「大丈夫。ほら、はやく行ってやれ」
なかなか離れようとしないクルベスを急かすと、名残惜しそうにその場から立ち去った。こんな時でも心配性な友人に少しばかり緊張が解けてしまう。緩んだ気を引き締めるように大きく息を吸い込み、ベッドに寝かされたティジに顔を向けた。
「ティジ……ごめんな。お前が一番苦しんでる時に独りにしてしまった。恨まれてもしょうがない。……こんな父親で本当にごめんな」
その頭に触れ、額をつき合わせる。
少しでもこの子に寄り添ってあげたかった。
「大丈夫。すぐ楽にしてあげるから」
◆ ◆ ◆
ここに来るのは久しぶりだ。できれば来たくはなかった。いびつに繕われた空間。何度も何度も引きちぎって無理やり縫い合わせたようなひどい空間だった。
ここはティジの記憶の中。いわゆる心の中みたいなもの。
ジャルアが記憶操作の魔術を扱う際、極めて異質な負荷が生じる。それは相手の記憶の中に入り込み、対象の記憶をありありと見せつけられること。
またそれに加えて、その時の感情なども全て流れこんでしまう。まるで自分がそれを経験したように。そのおかげもあってか、記憶の書き換えという行為自体は難航を極めることなくおこなえた。その一方でジャルアの精神はすり減るのだが。
そんな吐き気をもよおすほどの過剰な負荷も、あの子を救うためならば何とか耐えられた。
ユリアが殺された時の記憶はもう書き換えた。ユリアは最期に身を挺してティジを護ったのだと分かり、彼女の口からこぼれた想いに先ほどから涙が止まってくれない。
それでも足を止めるわけにはいかない。もう一つの記憶も書き換えなければ。
そこら中に散らばるソレを一つ一つ潰していくのは不可能だった。書き換えても次から次へと湧いて出てくるのだ。それならば大元となる記憶を叩くしかない。
どこかにあるはずだ。おそらく一番奥、最初の――
「ティルジア!!」
ようやくその小さな姿を見つけ、名前を叫ぶ。
ティジはその場に座り込み、茫然と宙を見つめていた。その視線の先にはなぜか窓があり、まるでそこだけ、どこかの部屋の一角のような印象を受けた。
窓ガラスには雨が打ち付け、雷鳴が轟く。それに泣いて震えるわけでもなく、ただただ眺めていたその子はジャルアに顔を向けることもなく唇を動かした。
「ぼく、考えたよ……いっぱい考えた……でも……分かんなかったよ」
「ティルジア!そんなの分からなくていいから!はやくこっちに来い!」
以前と同様に一定の距離まで行くと見えない鉄格子に阻まれてしまい、それ以上近づくことは叶わなかった。
でもあと少しなんだ。あの子がこちらに手を伸ばしてくれればその手を取れる――助けられる。
「たくさん考えて分かんなかった……でもきっと、ぼくのせいでこうなったんだ」
「やめ、やめろ!ティルジア!!」
ティジの体が沈んでいく。あの時と同じように。
「ティルジア!お前は悪くない!手を伸ばせ!!もうお前を独りなんかにしない!ずっと一緒にいる!だから――」
「じゃあなんで、助けに来てくれなかったの」
以前は言われなかったソレに言葉を詰まらせた。
「ぼく、ずっと待ってたのに……きっと助けに来てくれるって信じてたのに……でも誰も来なかった!じぃじもクーさんもお母さんも!お父さんだって、誰も、だーれも!ぼくを助けてくれなかった!」
責めるように、助けを求めるように悲痛な声であえぐ。
「ねぇ、なんで?ぼくが悪い子だから?嘘ついたから?あの人のことを話したらよかったの?そしたらぼくは、あんなことされなかったの?」
こちらに問いかける姿は溶けるように黒くよどんでいく。
「――こんなぼく、もういらないんだ」
瞳から一筋の涙がこぼれると、小さな姿は沈んで見えなくなった。
第一章(13)『その後』にてクルベスさんから語られた、四年前の出来事あたりのお話。ジャルアさんも色々と思うことがありました。