小さく息を吐き、いつの間にか閉じてしまっていた目を開ける。
何度かまばたきを繰り返し、周囲の不可思議な光景――真っ白な景色を確認してようやく自分の状況を理解する。
ここはおそらく夢の中だ。あの不思議な夢の続き。それを証明する物はどこにも無いけれど自分の中の直感がそうだと告げていた。
前回はどのような夢を見た?どのような場面で終わっていた?
自分に問いかけながら、まだ微かに残っている記憶を遡る。
確か……記憶に関する物を探そうとひたすら歩いて……そうだ、何か見つけたんだ。枯れた花のような物を見つけた。でもそれはすぐに消えてしまった。
そうしたら今度は自分の前に誰かが立っていて。その姿を見ようとしたところで目を覚ました……のだと思う。いや、本当は見たのだろうか。この辺りに関しては覚えていないので何とも言えない。
もう一度周囲を確認してみるが自分以外には誰もおらず、花らしき物も落ちていない。
自分の記憶に繋がる手掛かりだったかもしれないのに。それを目の前で取り上げられてしまった悔しさややるせなさに涙が込み上げてくる。
唯一覚えているのはあの声だけ。
――ティルジア。
落ち着きのある男性の声。
――ティルジア。
あの声はこのように自分の名前を呼んでいた。そこまで考えて、再びあの声が聞こえ始めている事に気がつく。あの声がする。誰かが自分を呼んでいる。
俺の名前を呼んでいるのは誰?
何者かの声にそう問いかけようとするが出来なかった。声が出ないのだ。まるで声帯が失われてしまったかのように無意味に息を吐くだけで言葉を発することが出来ない。
でもこのまま何もせずにはいられない。今はこの声しか手掛かりが無いんだ。
そう自分を奮い立たせると、声の主を探すために再び歩き出した。
今日はエスタさんにお城の中を案内してもらった。案内してもらっている間もエスタさんには内緒であの声の主を探していたけれど、該当する人は見つけられなかった。
あなたは誰?どうして俺を呼んでいるの?あなたは『記憶を失う前の俺』にとってどういう存在なの?
声が出ない代わりに心の中で問いかけるも答えは返ってこない。
日中は『何か思い出すきっかけになれば』と自分に関する情報や見聞きした内容をノートに書き留めていたがめぼしい成果は得られない。書きつづった物を読み返しても、自分の知らない物語を又聞きしているようで『記憶を失くす前のティルジア・ルエ・レリリアン』の実像が掴めないのだ。
過去にあった明るい出来事や楽しげな思い出を書いても、まるで実感がわかない。
言うなればまっさらな水に絵の具を一滴落とすだけのようなものだ。すぐに溶けていって水を僅かながらに淡い色にするだけ。
そこにまた様々な思い出を落としていって……それなりに色がついたとしよう。でもそれはどうあがいても『記憶を失くす前のティルジア・ルエ・レリリアン』にはなり得ない。それになるべく近づけようとした紛い物、贋作のティルジア・ルエ・レリリアンにしかならない。
思い出さなきゃ。思い出さないとダメなんだ。そうしたらみんなを安心させてあげられる。
焦燥感に駆られながら声を追い続ける。景色は一向に変わらないが声は段々と別の言葉も囁き始める。
――……してるんだ、ティルジア。これ以上にないほど、君を――してる。
声は途中で砂嵐のような雑音が重なって、途切れ途切れに聞こえる。
もっと鮮明に聞こえたら何か思い出せるかもしれないのに。
教えて。俺の名前を呼ぶ『あなた』はいったい誰なの?
「――っ!」
突然、手首に鋭い痛みが走った。痛みに息を詰まらせて手首を見るとそこには何かで擦ったような傷が現れていた。
――ティルジアはここで俺と一緒にずぅーっと楽しく過ごすんだ。楽しいこと、好きでしょ?
傷は左右それぞれの手首をぐるりと一周している。こんな傷、日常生活で付くだろうか。
――ねぇティルジア。お外、出ないよね。
ジリジリと不快な痛みが脳を焼き、手首を巡る傷は声に呼応するかのように熱を帯び出す。
ずっと一緒に過ごす?お外に出ない?
この声は何を言ってるんだ?
その時、背後から腕を引かれる。
引かれた方向を振り返るとそこには小さな子どもが立っていた。パーカーを羽織っており、フードを目深に被っているため顔はよく見えない。
その子どもに『きみは誰?』と聞こうとしたがやはり声は出ず。あれだけ鳴っていた誰かの声もいつの間にか止んでいて。静寂が戻ったその空間で自分と子どもの息遣いだけが聞こえていた。
「もう来るな」
幼い声は短く呟き、その頬に一筋の涙が伝い落ちる。
その言葉と涙の意味を理解する前に意識はブツリと途切れた。
その日一日の情報共有はティジの夕食から入浴している間に行われています。
事情を把握していてすぐ行動できそうな二人がどちらもティジのそばから離れる状態となるため、話し合えるタイミングがこの時間しか無い。ティジが戻ってくる前に迅速に、でも情報の取りこぼしがあってはいけないので細心の注意を払いながら話し合わないといけないので大変忙しい。
情報共有ではエスタさんはティジの様子、クルベスさんはルイの様子を教え合ってる。本来ルイの情報までは共有しなくていいけれどもエスタさんがすっごく気にしているのでついでに話してます。あともしかしたらエスタさんだから気付くこともあるかもしれないし、という考えもあったり。